似非随想録

「幻によろしくな」

誰得できるかな

こんなゲームをご存じだろうか。その名も『誰得できるかなゲーム』。必要な人数は3人以上。ルールは簡単。3人のうちのふたりが向かい合いじゃんけんをして先攻後攻を決める。残りの人間は審査員として彼らを見守る。後攻が「誰得できるかな?」と言ったあと先攻が『ギリギリ誰かが得をすること』を述べる。先の手順を次は後攻の人間も繰り返す。それからあと、ふたりが述べた『誰得状況』を審査員が吟味、よりギリギリを攻めていたほうを勝者とする、といった外連味たっぷりのケッタイなゲームである。

高校生のころの私と数少ない友人であるPとJは、いま思い返せばまったくたのしそうでないこのゲームに、しかし短い期間ではあったがドハマりしていた。年ごろ特有のニキビと脂ぎった顔面にクツクツと気味の悪い歪な暗黒微笑を浮かべながら、教室や放課後のマクドナルドの片隅で、スクールカースト延いては社会の最底辺で『誰得できるかなゲーム』に興じていた。

私はもっぱら下品な誰得状況を攻めることを得意としており、一番のお気に入りには『大衆の面前で意図的に大便を漏らしたにもかかわらず必死の形相で代弁することを悦びとする校長』がある。そのときの対戦相手はJ、審査員はPが務めていた。Jは「あまりに下品であり、これを『誰得状況』とするには、そう、あまりに下品」と繰り返し、Pは「人間の業を煮詰めたような性的趣向があり、大便と代弁で以て押韻しているところにも言語的美点が光る」と意味不明な称賛をくれた。

Jは3人のなかで最もオーソドックスな誰得状況を攻めることを得意としていた。彼が放った誰得状況で印象的だったのは「飲み会の席などにて、残りひとつとなったつまみを遠慮なく食べる嫌われ者」というものだ。このときの対戦相手はP、審査員は私が務めていた。私はこれに対し「割とみんな得するような状況だし、誰得状況ギリギリではないのでは?」と言いPの繰り出した誰得状況『宇宙でさまよい続けるさみしがり屋のネギトロ』に票を入れようとしたが、Pは一貫して「これはきみが本当になりたいけれどどうあってもなれない、真の意味での理想の人間像だろう」と意味深なことを言い、Jに勝ちを譲る態度を取った。Pのその奇異な態度に、しかしJは少しうれしそうに、けれどもそれを私たち二人に悟られまいとしてか、伏し目がちに微笑んでいた。
そんなJの好きな言葉は「中庸」であり、それは彼の生活態度の指針でもあった。であるからして、本来の彼の信条と『誰得できるかなゲーム』は相反するだろうと思っていた私は以前に一度彼に尋ねたことがある。「このゲームをきみは嫌悪しているんじゃないか?」と。彼は放課後のマクドナルドでハンバーガーをかじりながらこう応えた。「道を踏み外したなら、元の道に戻ればよい。けれどもだ、自分の信じた道への戻り方を知るには、人は一度自分の信じた道から外れなければならない。ときに人は中庸から外れることも大切だ。そういうことだよ、きみ」

Pは私たち3人のなかで最も突飛で、有体に言えばクラスに一人はいる『なにを考えているのかわからないやつ』だった。彼の繰り出す誰得状況はいつも現実にはありえない状況で、それはほとんど詩的であった。彼のもので印象的だったのは『笑顔の三角に詰め寄る怒り顔の四角のツーショットを泣き顔で見つめる立方体』というものだ。もはや誰得でもなんでもない、想像も不可能な状況をPは好み、いつもたのしそうな声でそんな意味不明を高らかに宣言するように言った。その度にJは「ルールを守れよ」と泡飛ばし、私はそんなJの様子と彼をうれしそうに見つめるPの両者を視界に入れ苦笑していた。

そんな私たち3人の痛々しい青春もいまは昔、はるか20年も前のことである。高校卒業後、私たちはそれぞれ別々の大学に通い、初めのころこそ連絡を取り合っていたものの、それも次第になくなり、社会人になるころにはめっきり疎遠になっていた。また私もJもPも同窓会に出席するような人間でもなく、だからそういった場所で再会するというようなこともなかった。そんな私たち3人が、けれども近ごろ思わぬかたちで再会することがあった。

「再会とはいえ、こんなふうなのは最悪だな」
そう言って深くため息をつくJを横目に私はなにも言えずにいた。約四半世紀ぶりの再会であることもそうであったし、再会の理由もそうであったし、なによりJの変貌ぶりに戸惑いを隠せなかったからである。
「おまえさ、禿げあがったんだなあ」
やっとの思いでそう言った私にJが苦笑して言う。「久しぶりの再会の一言目がそれなのか。おまえは変わらないな」
学生服を着てぶっきらぼうにこちらを睨む、額縁に綺麗に収まった20年前の姿のままのPがそんなぼくらを見ているような気がした。

10年ほど前に世間を賑わせていた幼女連続殺害事件があった。事件当初、しばらくのあいだはどのチャンネルを回してもその事件のことばかり報じていてうんざりしたものだが、そんなメディアの執着の甲斐もあってか犯人はすぐ逮捕され、それから以降めっきり聞かなくなっていた。そんな割とどこにでもある凄惨な事件だが、数年前に真犯人が捕まったらしくまた世間を賑わせた。つまり、当初逮捕された犯人はまったくの無実だったのである。SNSのタイムラインの合間にそのニュースを見た私は「気の毒に……」とまさに他人事のように思ったものである。大学のサークルで出会った彼女、現在の妻がそんなぼくの隣で「あんまりよ。あまりにひどいわ」と憤慨していたことも覚えている。そして、その彼女の声に泣き始めてしまった当時赤子だった、現在小学1年生の愛娘の泣き顔も。

「まさか誤認逮捕されたのがPだったなんてな……」
通夜のあとに入った居酒屋で、赤ら顔かつ禿げ頭のJがぽつり呟いた。Pは10年ものあいだ無実の罪で檻のなかで過ごしたそうだ。笑顔の三角、怒り顔の四角、泣き顔の立方体、そのあいだの彼の気持ちを、私たちは想像することもできないだろう。10年ぶりに刑務所の外へ出たPが抱いたのは希望だったのか、はたまた別の……。彼は出所後、社会復帰にたいへん苦労したそうだ。家族との関係も以前のようにとはいかず、きっととても苦しんだに違いない。ある日、母親がPの部屋へ夕食を持って上がった際には、彼はすでにこの世を去っていたそうだ。

それからあと、私とJはPの死から目を背けるみたいに昔話に花を咲かせた。そして話の合間にJは繰り返しこう言った。「中庸ってのはさ、難しいな」
そんな私たちの再会にも次第に沈黙が増え始めたころ、「宴も酣だけど、俺、明日も朝早いからさ、もう行くわ」Jはそう言ってテーブルの上に残っていた焼き串の最後の一本をなんのためらいもなく頬張り、机の上に万札を数枚置いて店を出て行った。
「俺さ、いま社長やってんだよね。けっこう稼いでんのよ。釣りはもう気にせず取っとけよ。おまえみたいに結婚はまだだけど、もういいかなって思ってる。会社でもワンマンな態度取っててさ、嫌われ者が板についちゃったしねえ」

そんなJの捨て台詞と猫背の背中と禿げ頭を思い返しながら、私は決して線路から踏み外さない帰りの電車のなか、Pが生前に母親との最期の会話で漏らした言葉を反芻し続けた。

「生きるって、誰得なんだろうね」

そんな意味深なメッセージに既読がつき、妻から返信がやってくる。
「『おとうさんまだぁ?』だって。かなしいこともあるけどさ、ほかにもいろんなことが私たちを待ち受けてるよ」
それからあと愛娘の眠たそうな写真も一緒にやってきて、そうこうしないうちに乗り換えの駅に着くことを車内アナウンスが私に知らせた。