似非随想録

「幻によろしくな」

カタログオタク

新しいものを買うことが苦手だ。物欲がないということではなく、少し前に話題だったミニマリストとかいう類の人種でもない。なにが苦手かというと、当然のことながらあらゆるものには一長一短というものがあり、つまり想像のとおり機能するようなものはほとんどないに等しく、私は『購入前に抱いていた期待』が使用を重ねるにつれ砂の城のように儚く脆く風化していくことがとてもとても苦手なのである。
ものを買うと幻滅することは往々にしてある。たとえば以前購入した液晶テレビは精細な映像美がセールスポイントで、私はその特徴に魅かれ購入するに至った。たしかに画面に映される映像はどれも美麗ですばらしいものであったが、しかしそのテレビはオーディオ面でまったく満足いくものでなく、私は早々に魅力を感じなくなってしまった。購入前によくする『それを買って私の生活がどうよりよくなるのか』という妄想の段階ではその欠点に気付くことができず、ゆえにこのような事態を想定できなかったのである。そんな幻滅に私が慣れることはない。きっとこれからもないだろう。それほどに私はその類の『がっかり』がなにものにも代え難く苦手なのである。

そんな手前勝手な性分が高じてか私は常に『ものを買う』ことに臆病であるのだが、しかし購入前に芽生えるワクワクというか未来に胸を膨らませ逸る気持ちをなんとかやり過ごし以て平然を装い街を浮足立って歩くときの『あの感じ』が、なんともかなしいかな、大好きなのである。そんな様子であるからか、私の数ある趣味のなかには『カタログ収集』というものがある。カタログというのはとてもよいものだ。具体的になにがよいのかというと『商品のよいところだけを書いている』ところがとてもよい。私はひたすら羅列された商品の利点の点と点を妄想のなかでつないで歪め増幅させてみたりして部屋でひとり微笑むのである。ある商品によりさらに快く改善される生活のことや、その商品によって演出される日常の一瞬や情景、その商品があったからこそ観察することのできたあなたのあの表情のことなど……。ひどく理想主義的で臆病な習性であることだなあと、ときどき辟易することもあるがしかしそれらは買わなければ実現することもない代わり、壊れてしまうこともない。その可能性は現実に挫かれることなく永遠に可能性として私の脳内に留まり続ける。これは私の生存戦略のひとつなのかもしれないが『実際には起きていない出来事』の精細なスケッチは脳に留まり年月を経るごとにさらに細かい描写が追加され続け、いつしかそれは現実に起こった出来事と遜色ないリアリティを獲得するに至る。するとそういった妄想はいつかただ私にとっては事実と虚実の境界を飛び越えて私の歴史にさも起きたかのようなものに昇華され、昇格するのである。

たのしいことやうれしいことがあったときは卒業式や送別会などで活躍するいろんな商品が並ぶカタログに手を伸ばす。それをペラペラとめくりながら今日あったたのしい思い出を肴にいつかやってくる別れのときを想像してインスタントな感傷を得たりしつつ煙草に火をつけたりする。くやしいことやかなしいことがあったときはモデルガンや護身用装具が並ぶカタログを乱暴に開いて、脳内で目星をつけた八つ当たり対象を八つ裂きにするための武器を探す。こんなふうな普遍的な気分に最適なカタログはもちろん常に常備しているが、私は私の感情をさらに細分化・ラベリングし、いろいろな気分に最適なカタログというのを取り揃えるに至っている。たとえばあたたかい日本茶をよりおいしく飲むためには墓石や仏具などのカタログを。日曜の夕方、明日から始まる仕事を思い立ち込める憂鬱な気分を晴らすときには空調器具のカタログを。いまはもう疎遠であるかつての友人たちに想いを馳せるときには万年筆やレターセットのカタログを。牛乳を買いに行かなければならないが面倒で腰が重いときにはさまざまな国の牛乳が並んだカタログを。日々の些事に耐えられなくなって押し潰されそうになったときにはあらゆるゲームソフトの並んだカタログを。
私にとってカタログとはカタログ的な役割だけではなくて、現実逃避的な役割を持ち得る。買わなければ理想は叶うこともないけれど、挫かれることもない。私はあらゆる商品を媒介していろんな情景に想いを馳せる。あるいは重ねる。私は私の心象にそうやって少しずつ『本当は見ても聞いても触れてもいない諸々』の精細な描写を重ね続け、ついには理想を崩すことなくその妄想を『本当のこと』のように扱う術を獲得したのである。

買うことはつながることである。つながることとはつまり、いつか必ずやってくる別れの約束手形のように機能する。別れとはどんなものであれ切ないものである。慣れないものであり、また慣れてはいけないようなもののような気もする。短絡的で稚拙な思想と言われればそうかもしれない。けれどもこれはまるっきり嘘ではない、むしろ短絡的で稚拙としか言いようのない、言い換えればつまりそれは「それを言っちゃおしまいよ」と言うほかない、だからとどのつまり、どう詭弁を論じようとこの世界を回す残酷な真理のひとつであるようにも思うのだ。

「それって、ひどくさみしいことのように聞こえるなあ」
以前、私が密かに想っていた人が私の生存戦略にそんな感想を与えた。私はよくばってしまって『あなたにもっと私のことを知ってほしいのだ』などと相当に危険な思想を有していて、あろうことかそれを実行してしまった。結果として彼女は私にとって『理想の彼女』ではいられなくなってしまい、途端に私の恋心は瓦解、幼児の手のなかで徐々に張りを失いしぼんでいく風船あるいは母親の乳房のように小さくなっていった。

私はいつか死んでしまう。少しずつ集めたカタログたちとも別れる日がいつか、けれども必ずやってくるだろう。必要最低限の生活物資しかない部屋の壁面にある本棚、そこに綺麗に整理整頓され陳列されたカタログの数々。私にとっては唯一実現しても裏切らなかった理想。その光景は異様だろうか。他人の視点や感性から私自身のことを見ることは未来永劫叶わないのだから、それは死んでもわからないことである。以前葬儀プランの並んだカタログを読んでいると、思い入れのある品々とともに焼いてもらう火葬プランを見つけ、私はそれに予約した。そのあとすぐにそのプランを取り扱う葬儀店に電話をかけて尋ねた。「これって、私の葬儀風景を新たにカタログをつくるときに使ってもらうこととかってできるのでしょうか?」先までにこやかに対応してくれていた若い女の声は一瞬詰まってから応えた。「ええ、もちろん」
その日から私は死んでからあと化けて出てカタログを確認する日が待ち遠しくて仕方がない。

そんな妄想をカタログのカタログをペラペラとめくりながら膨らませている。カタログのカタログのカタログもあると、そのカタログの末尾にはあった。世界はどうにもマトリョーシカで、たまねぎで、とても精彩には描き切れないな、などと。