似非随想録

「幻によろしくな」

トースト28号

近所に食パンが美味で評判のパン屋がある。
私は、毎朝のトーストはそこの食パンでないともう食べる気も起きない。
外はサクサク、なかはふわふわ。近ごろ都市部で流行しているオシャレ高級食パン店が提供するオノマトペなどそこの食パンは持ち合わせていない。言うなれば「外は孤独な老人が長年連れ添った伴侶の遺骨を抱えひとり揺られる夜行バスでの旅路、なかは類人猿が稲妻から火を得たときの歴史的転換点」といったところだろうか。

閑静な住宅街の一角。外観はすべてが白く、窓はない。入口の扉はスライド式の重厚感ある鉄製で、常に固く閉ざされている。よって、外から店内を伺うことは叶わない。威圧的な佇まいには似合わないゴシック体で書かれた『OPEN』のドアプレートがユーモラスだといつも思う。
店内はちょうど小中学校の教室ぐらいのひろさ。内壁は、外壁と同じく白い。そして、手足に浮き出る血管に似た太さも長さもさまざまな黒みがかった青色の線が店内の壁全体を駆け巡っている。壁の一角には豪奢な額縁に入った『焼きたて!!ジャぱん』のポスターが飾られていて、店内照明は赤く、そして薄暗い。
おおよそ食料品店には適さない内観と、まるで客を呼び込むには適さない、むしろ拒むような外観。店内は年内を通して暑くも寒くもない。けれどもそれはやってくる客に配慮してのことではきっとない。それはパンがいきいきと鮮度を保つ最適の室温であるのだろう。
店の名は『製麺麭研究所』。そう断定する根拠は「会計時に毎回もらうレシートにそのように印字されていた」ということのみだ。店の外には、どこにもそのような屋号を見つけることはできない。知る人ぞ知るパン屋なのだろうか、行列ができているところは見たことがない。私は店内でほかの客を見たこともない。けれどもパンは売り切れていることも多いように思う。

ここで私が購入できるパンは『食パンのみ』である。種類はそのときどきではあるが、しかし常にざっと30種類はあるだろう。食パンのみでその種類が常時30を超えるパン屋など、私はこの店以外聞いたことがない。
私のお気に入りは『トースト28号』。一斤で2ドルと10ユーロ、それに円とウォンを少々。私はそれにプラスして毎度100トルコリラをチップとして添える。ときどき『トースト10号』や『トースト3号』なども購入することがあるが、やはりいちばんは『トースト28号』なのである。
このあいだは『早熟』と『仮仕込み』を2ポンドと3クローネと綺麗な貝殻1つで購入したが、それらはあんまりだった。「この店のパンにも外れがあるんだな」と新鮮だった。次回は「微芳醇」を試してみようと思う。

この店には食パン以外もあるにはある。
『邪眼』という名のクリームパンと思しきものや『ハ短調4分の4拍子』という名の豆腐ドーナツは人気らしく、売り切れていることも多い。このあいだ店に行ったときには『ミネラルウォーター』という名のカレーパンが焼きたてらしく非常においしそうだった。
けれども、それらを購入する際には『麺麭調製免許』なるものの所持および提示が必要で、私はそれを持っていない。一度ネットで検索を試みたけれど、それらしい資格はなにもヒットしなかった。いつか店で食パン以外を購入している客を見かけたら聞いてみようと思う。

製麺麭研究所』の従業員はおそらくひとりと一体だろう。
ひとりとは、いつもぼんやりとしていて、なぜか常に白衣を着ている髪の長い女性のことである。彼女はいつもレジを打ってくれるのだが、その所作が非常に機械的である。微笑むなどといったことはもってのほかで、私は声すら聞いたことがない。話しかけても返答はない。レジを打ち終えたあとの彼女はどのような感情も伺えない無表情で、ただじっと私の両の目を見据えるのみである。私が苦労して揃えた外国硬貨を一瞥し、彼女はそれらをレジのすぐ横に置かれているゴミ箱へ流し入れる。金額がちょうどでなくても同じである。そして彼女はいつも必ずレシートをくれる。そこにはいつもパンの代金「ちょうど」をもらった旨が記載されている。
一体とは、いつ行っても電源が切れているペッパーくんのことである。なぜかこの店のペッパーくんは両腕がもがれている。電源が切れているからか、常に店の床を見つめていて、電源が入っていようが切れていようが彼は常に冷たい。
だからこの店の従業員は、実質で言えば白衣の彼女ひとりということになるのだろう。パンを製造しているのが彼女なのか、ペッパーくんなのかは未だ謎のままである。

 以前、私の部屋に泊まりにきていた友人に朝食として『トースト28号』を振る舞ったことがある。彼は皿の上に乗る朝食を見るなり「え? これ焼きおにぎりだよね?」と意味不明なことを言っていた。彼とは絶縁し、以降会っていない。
母親におすすめしたいと思って写真を送ったときには「写真間違えてない? これトーストじゃなくて英和辞典だよ?」と友人と同じ支離滅裂な反応を示していた。それ以降母親からの連絡は無視している。

今日も私は『製麺麭研究所』でへ向かう。財布のなかには2ドルと10ユーロ、それに円とウォンが少々。もちろんチップの100トルコリラも抜かりがない。
今日の『トースト28号』はいったいどのような仕上がりなのだろう。形而下のかたちにこだわることはない。本当のおいしさを『ソレ』は持つのだから。

店へと向かう道中にある公園で老人が鳩にパン屑を投げていた。類人猿に似た筋骨隆々の男がランニングに勤しんでいた。よく晴れた空に手のひらをすかすと、そこには真っ赤な血潮が流れており、それを見て私は「とてもよいトースト日和であるな」と思った。