似非随想録

「幻によろしくな」

くもりのちまくら

金曜日の夜、労働を定時きっちりに終えて退社した。明日の朝はやくに予定があるわけでも別段なかったのだけれど、特に前向きな気分にもなれず、どこにも寄り道せずてくてく歩く。すっかり寒くなった夜のなか、一昨年に購入した黒色のダッフルコートを着込みharuka nakamuraの『arne』を聴きつつ電車に乗った。

人もまばらな車内で携帯電話を取り出し確認すると、古い友人からメールが一通届いていた。去年の春に共通の友人の結婚式で二言三言交わしたことを覚えている。彼の名はTという。液晶画面をタップしてメールを開くと紋切り型の挨拶が冒頭にあって、なんだか少しすわりの悪い心地になる。私たちはいつからかつては間違いなく友人であった間柄の人間にも『礼儀』という自己防衛を見せつけるようになったのか。とかくそんなたのしくない不健康な憂鬱を思考の端でくゆらせながら、私は続く本文の上を視線でなぞった。
『急で悪いんだけど、今週末、空いてるか?ひさしぶりに会いたくってさ』
ふむと思って私は悩む。而立を優に超えて不惑を目前にした我々がわざわざかつての友人に連絡する理由。マルチや宗教勧誘などでなければよいなあと思いつつ返信。
『いいね。ちょうど空いてるよ。メシでもいこう』ものの数分で再度T。『じゃあ明日の土曜、○○駅前で』

当日の土曜日はどんよりとくもっていた。指定された駅前に向かうと、Tは先に到着していた。
「ひさしぶり。元気そうだね」そういうTの出で立ちは異様だった。全身真っ白のスーツに身を包んで、ネクタイも白。両手の爪も白色に染まっていて、カラーコンタクトを装着しているのか、両の眼孔に安置された眼球も白色だった。白くないのは彼の少し日に焼けた肌と煙草の煙で汚れた歯、それから目の下に黒々と染み付いたような隈ぐらいだった。「じゃあ行こうか」
「行こうってどこに……」驚いている私への挨拶もそこそこにTは私に紙切れを差し出した。まるで自動機械になったような不自由さで以て、つまり自分の自由意志ではまったくなく、ほとんど反射的に私はそれを受け取った。紙切れはバスのチケットのようで、上段には『冬の枕狩りツアー』という文字が妙にポップなフォントで以て紙面中央に配置されていた。
「最近よく眠れてる?」チケットの意味深なタイトルに眉間を強張らせている私に、深々と刻まれた隈には不釣り合いなほど開かれた両の目で私を見据えTが聞く。『それはこっちの台詞だよ』などという思いが胸のうちで落ち着かないままでいるのを感じながらも無視、私は応えた。「まあ、それなりに」
「嘘でしょう?」やわらかい声音でTが言う。「だって目の下の隈がすごいもの」そして彼は笑った。それは『ラスト・フォー・ライフ』のアルバムジャケットで笑うイギーポップのような明朗かつ不気味な笑顔だった。

そうこうしていると駅のロータリーに小さくも大きくもない中型の観光バスが停車して、Tがそれを認めて歩き出す。私も彼に続いた。バスの出入り口に立つ運転手にチケットを見せ車内へ。なかにはすでにちらほらと人が乗っていた。世代はさまざまで、頭頂部が生まれたままの黒色に染まりつつある金髪の若い女がいれば、黒色のスーツを着た白髪の老紳士もいた。共通しているのは、だれもが目の下に深い隈があるということ。『なるほどこれは不眠症セミナーだかなんだか、きっとそのような類のものだろうな』私はそうひとりごち、Tの隣の席に腰掛けた。
「ひさしぶりに会ってこういうのもなんなんだけどさ……」言って私はTの外見に言及する。「ちょっと悪趣味じゃない?」
「これ?」白いスーツの端をちんまりとつまみあげTは言った。「白いと落ち着くんだ。よく眠れる。全身が枕みたいになった気分でさ。わかるだろ?」
Tはいったい私になにが『わかる』と期待して問うたのだろう。私にはなにもまるでわからなかった。彼が奇特な格好をする理由も、求められた共感がなにを指すのか
「で、この『枕狩り』っていうのはなんなんだ?」私は話題を変えTに問うた。
「国内の枕生産量1位がどこか知ってる?」私の問いにTが問いを重ね、私の応答を待たず続けた。「○○県○○市のとある村なんだ。山と山のあいだにあるような村で、そこで採れる枕はほんとに別格なんだよ。天にも昇るような心地でさ……まあ知らないのも無理ないけどね。国ぐるみで秘匿されていることだから」
「それってどういう……」Tが言う意味不明の意味の意味解像度をもう少しだけ明瞭にしようと追及を試みたのと同時、車内にいつのまにかいた添乗員の女が耳にキンキン刺さるようなテンションで話し始め、私は黙った。 

「この度は『冬の枕狩りツアー』にご参加いただき、誠にありがとうございます。わたくし、今回みなさまの旅のおともをさせていただきます、合法的睡眠アドバイザーの目乃田実と申します」そこで女はひと息つく。車内にはまばらな拍手が起こった。それを聞いた女が満更でもない様子で顔の筋肉を軟化させ仕事を再開する。「それではみなさま、目的地に到着するまでのあいだ、ごゆるりとお眠りくださいませ」

気付けば私は眠ってしまっていたようで、はっと目が覚め車窓のほうへ視線をやると、どうやらバスはすでに目的地へ到着、停車していた。
「やっと起きたね。よく眠れた?」そう言って笑うTの目の下の隈はこころなしか先ほどよりもよくなっているように思えた。「じゃあ行こうか」
言われて私たちはいそいそとバスを降りた。少し眠ったからだろうか、身体は驚くほど軽く、どうやら私は非常に質のよい睡眠をしていたらしい。
「もうすぐ降り出しそうだね」言ってTが空を見上げた。
「傘、持ってきたらよかったなあ」言って私は周囲を見渡した。同じバスに乗ってきた目の下の隈の深い人々のほとんどが空を見上げていた。皆そんなに空模様が気になるのだろうか。そんなことより、よくわからないけれどもしかしさっそく『枕狩り』とやらに興じるべきではないのだろうか。雨を心配しているのならなおのこと。だいたいさっきのなんたらアドバイザーはどこだ。バスから降ろされて、それからぼくらはどこへ向かえばいいのか、なにひとつ聞かされていない。
「なあT、さっき聞いたけどさあ、ほんとだいたい枕狩りって……」Tは口元に人差し指をぴたりとつけ、私の言葉を途中で遮る。それから口元の指を空へ向け、小さな声で言った。「ほら、そろそろくるよ」
「なにが……」言って私は彼の指差すほうへ視線を向け絶句する。方々からは歓喜を多分に含む嬌声があがっている。「枕が降ってきてる……」

灰色の雨雲の先からゆっくり舞い降りてくるように、大きく白い枕がふわりふわりと落ちてくる。数は決して多くない。私の視力で認められたそれはぜんぶで3つだった。
「おいT、あれっていったいどうなってんの……」言って隣を見やったが、純白の彼はどこにもいなかった。すでに舞い落ちてくる枕の落下地点へTは疾走していた。それぞれの枕の落下地点には人だかりができていて、なにやら互いに怒鳴り合っている。少し古いコメディドラマで見たことがある年末年始の婦人服のバーゲンセールのような光景。そこで展開されているのは闘争であった。原始的闘争。殴打と流血と収奪の光景。
金髪の若い女がスーツの老紳士の上でマウントを取り、グラウンドパンチを繰り出している。老紳士の顔は真っ赤に腫れ上がり、意識はすでにないように見える。白髪のところどころは血で赤く染まっていた。老紳士の息の根を止めたことを確認し、肩で息をして微笑む金髪の若い女の背後にTが立っていて、女はまだ彼に気付いていない。Tはスーツから小さなナイフを取り出して、それを女の後頭部に突き刺した。女は停止、沈黙、若干の痙攣を経て、それから彼女自身がまたがっていた老紳士の上に重なるようにしてくずおれた。

「あなたは行かれないのですか、枕狩り?」白昼夢のような光景に面食らって動けない私の隣にいつのまにかバス添乗員の女が立っていた。「手に入れないんですか、安眠?」
「そんなことより、止めないんですか、あれ」緊張で乾いた喉がくっついてうまく声が出ない。掠れた声で私は続けた。「責任問題とか、たぶんなると思うんですけど……」
「そうですかねえ?」言って女はなにもかもが愉快であるように笑った。「大丈夫ですよ。みんなどうせ『眠る』んですから」
「はあ?」疑問符の可視化にもうまもなく成功するだろうクエスチョンマークまみれの私の隣で女は笑い続けていた。私は非難の眼差しとともに言う。「あんた、大丈夫か?」
「ご心配どうも」言って女は指差す。「ほら、あなたのお友達もちゃんと『眠る』ことができそうですよ」
女の差す指の先を見やると、そこにはついさっきまで白色だった全身をまだらな血色に染めて立つTの姿があった。彼は金髪の若い女とスーツ姿の老紳士の屍の上に立ち、舞い降りてくる枕に向かって手を伸ばしている。残り数メートル、数センチ、もうまもなく。Tの指の先まで枕はやってきて、それから突然の銃声、破裂する不眠を抱えたTの頭部、そして静寂。その後、空から舞い降りた枕はひとつ増えた屍の山の上に音も立てずに無事着地。それからそれは自身を求めた元不眠症患者たちの血をじっとりと吸収し続けた。
銃声の先を見やれば、そこには猟銃を構えたバスの運転手がいた。彼はほかの枕の落下地点にいる最後の生き残りたち2名の頭部も手際よく破壊、それからわずかの逡巡もなく自らの頭部も破壊した。

「ほら、みなさま無事に眠ることができました」絶句する私に女が微笑んだ。「あとはあなただけですね」

 そこで夢は醒めた。全身には汗。
「なんだ、夢か」私は先ほどの光景すべてが夢であることを言語化し表明、そうすることでまだなお怯える脳を落ち着かせた。「我ながらまったく悪趣味な夢……」
ひとつため息をついて、携帯電話で時間を確認する。〇月○○日土曜日、午前3時○○分。日時を認め、ようやっと気持ちも現実へ回帰、落ち着きがおぼろげながらも輪郭を獲得し始めていた。
「さあ、もうひと眠りしよう」うすら寒い部屋でひとり呟いて携帯電話の灯りを消そうとしたところでメールが一通届いた。差出人は古い友人のT。これは夢だろう。そう思い込み、中身を見ずメールを消去。それから私はウルツァイト窒化ホウ素よりかたく目をつむった。