似非随想録

「幻によろしくな」

光に反応する焼豚

先ほど、本当にとんでもなくおいしい焼豚を食べた。

昼過ぎまで惰眠を貪った私は携帯電話と財布だけを持ち、なにも決めずに部屋を出た。のんべんだらりと最寄り駅まで向かい、いちばん安い切符を買って電車に乗った。
電車のなかで30分ほどうたた寝をして、それから私はいままで一度も降りたことのない駅で下車し、改札を抜けた。

長年履いたせいか、それとも長らく続く不摂生で痩せたせいか、とうにサイズの合わなくなってしまったジーンズのポケットに手を入れ、時々はなうたなどうたいつつ、私は知らない街を当てもなく歩いた。しばらく歩いていると、視界の端に『ラーメン』と書かれた提灯を捉え、それまで鳴りを潜めていた空腹感が途端に自己主張を始めた。店の前にぽつねんと佇む食券売機をにらみ以て逡巡し、財布から取り出したる1000円札を挿入し『チャーシュー麺:980円』を購入、私は横開きの扉を勢いよくスライドさせた。

扉の先にはとてつもない闇がひろがっていた。「営業していないのか?」という疑惑のもと固まる私に向かって、闇のなかから勢いこそないがよく通る男の声が飛んできた。「らっしゃい……どこでも好きな席、どうぞ……」それから声の主は続けた。「お客さん、扉、閉めて。肉が固くなる……」
私は慌てて扉を閉めた。よく晴れた日曜の陽気を遮断された店内には本当に一寸の光もなかった。
チャーシュー麺ね……まあ掛けてよ、お客さん……」
出入り口のあたりから一歩も動けないでいる私に店主は言った。先ほどまで右手のなかにあったはずの食券はいつのまにか消えていた。闇のなか、私はなんとかしてテーブルらしきところまでたどり着き、腰掛けた。チャーシュー麺を待つあいだ、ツイッターでも見ようとポケットに手を突っ込むと「発光物は禁止なんですよ……」という店主の注意が闇のなかでよく響いた。風変わりな注意よりも、この闇のなかにあって私の行動を観測、あるいは先読みした店主に私は戦慄した。


視覚を奪われ携帯電話の使用も禁止された手持無沙汰の私は、闇のなかでチャーシュー麺の完成を待った。まだかまだかと待ちに待ち、そして突然そのときはきた。
「お待ち……」
店主の声と同時、店内を包んでいた黒い闇は白い闇へと転じ、それからまた黒く染まった。なにかが私の目の前で強烈に発光したのである。はっと気付くと、私は右手に箸、左手にレンゲを持っていた。鼻腔をくすぐる湯気に励起させられた空腹が地鳴りのような唸りをあげた。闇のなか、私は箸を伸ばし、つかみ、それを恐る恐る口へ運んだ。
「なんだこのチャーシュー……こりゃすげえや……」
私はあの闇のなかで、きっと頬が落ちていただろう。私は確信したのである。あの瞬間、あの闇のなかで、これまでの人類史において未だかつて誰もしたことがないであろう『食のエクスペリエンス』をしていたと。

思わず出た私の言葉に店主が薄く笑ったのが聞こえた。

「光だよ」
「え?」
「光がヒントだ……それ以上は企業秘密でね……」

そしてまたなにか私の眼前で強烈に発光し、漆黒は純白へ転じた。『闇』という性質はそのままにして。発光が収束したときには同時に闇も晴れていて、私はいつのまにか電車に揺られていた。そしていま、私は口内に微かに残る強烈な旨味を忘れないよう取り急ぎこのような突飛な文章をしたためているのである。

車窓からはすっかり暗くなった空といくつかの星が鈍く発光しているのが見える。私はよく晴れた日曜の真昼に、いったいどこで降りたのだろう。記憶はすっかり闇のなかにあるようだ。