似非随想録

「幻によろしくな」

生贄だいすき

人生とは選択の連続だ。
手垢にまみれた台詞であるが、しかし、だからこそそれはある程度の真実味も帯びる。

生きていると、知らず手に入れているものがある。身体。思想。関係。そして夢。ゆたかな人生というものに必要なそれらは、たいてい七色に輝いて綺麗である。否、そうあるよう強いられている。人間は自身が最もかわいいもの。自我構築に大きくかかわるものたちには強固な価値を持っていてほしいと自然祈るようにできている。

けれど世界は、社会は、人間は残酷だ。私たちはそれらを自身の手札のようにして、時にして切ることを迫られる。競争の市場価値が高い我々の世界での常識だ。交換。犠牲。生贄。そのような言葉が適切だろうか。切ったカードに置いていた私的価値が高いほど、私たちはそれに見合った見返りを期待する。そして多くの人たちはその賭けに敗れ、夢は睡眠時にのみ見るもの、あるいは「叶うのならば……」と祈る信仰対象に成り果てる。自身の歩む道の先にある目標というものには、もう今後一切なり得ないのだ。切ったカードを失うということは、つまりそういうことだ。そして私たちは川に沈む石のように丸くなる。

年を経てもなお刺々しい人というのもいる。彼らは勝ち続けているものか、あるいは打席に立つことをしなかったものたちだろう。敗け続けたものにとって、彼らはまぶしくあり、同時に痛々しくもある。なぜか。お互いに理解の及ばない存在であるからだ。人間の想像力は、人間が思っているよりもきっと貧相だ。

年を経るにつれ人間が同じような顔になるのは、きっと人間の生きる過程が先のパターンぐらいしかないからだろう。なにもみな最初から平々凡々であったわけではない。元々は特別なオンリーワンだった可能性がきわめて高い。

そして、生まれ持って握っている手札というものは、皆平等なわけがない。この世はきっと天国よりも地獄に近い。金持ちの子があれば、その逆も然り。容姿に恵まれた子があれば、その逆も然り。相対的思考は知らず格差を生み、またそれを愛し育む社会をつくる。行間に生きるもの。モノとモノとのあいだ、ヒトとヒトとの距離にこそ『人間』は存在しうるのだから。

それでなにが言いたいかというと、どうだろう。特にないというのが本当のところだ。実はかつてはあったのかもしれないが、私はそのカードを知らず賭け、そして失ったのだろう。残ったのは穏やかだが常に晴れない靄のかかった気持ち。過去の自分を保とうとする虚栄。それから生に前向きになったこと。いや、生きることについてそこまで悩まなくなった、という方が適切だろうか。

かつて私が握っていたカード。根拠なき全能感。
かつての私が欲していたカード。唯一無二の表現。
いまの私が握っているカード。愛する人との今後への期待。
いまの私が欲しているカード。平和な未来。

どちらがよいかと問われたならば、人間はだいたい「いまの自分」を肯定したいものだろう。白黒つかないことだけれど、きっとそうだ。白黒つけなければならない世界は物騒だから。生きろ。さもなくば死ね。