似非随想録

「幻によろしくな」

悪人引越しサービス

終電の時間を裕に過ぎてなお続いた仕事を終えた日のこと。私は私以外誰もいない会社のソファに倒れるように沈み込み、さまざまな鳥たちがいよいよその耳障りな鳴き声とともに爽やかな朝を運んでくる直前の時間まで眠った。それから地下を騒々しく這う鉄の蛇が目を覚ます頃合いに会社を出、駅の方へ歩いた。左手には夜のうちにすっかり雨が降り止んだせいで当初期待されていた活躍の機会を根こそぎ奪われたビニール傘、もう片方にはスリーファイブオーエムエルの缶ビールを携え私はゆらゆら帰路を歩いていた。そのときに見たトラック? 宣伝車? なんというかとにかく尋常ならざる風体の自動車が非常に不気味で印象的であった。

「この顔に~『ピンッ!』ときたら~お電話を~」

まだまだ人もまばらな薄暗い明け方の街にこだまする、変に間延びした舌足らずな女の声。女の声は録音らしく、私の少し後方でそれは何度も同じ言葉を繰り返しながら徐々に私との距離を縮めた。信号が赤に変わり、私と騒音は道路交通法を遵守し一時停止。早朝という状況と長時間の労働と少々の睡眠とで疲労していた私にとってその騒音は不愉快極まりないものだった。いやしかし、なんだかあまり聞き慣れないアナウンスである。「ふつうは『この顔にピンときたら110番』だろ」など思いながら私は騒音のするほうへ視線をやった。そこには変に間延びした舌足らずな女の声を再生し続ける一台のトラックがあった。繁華街を歩けば、近頃はよく目と耳に情報をねじ込んでくる類の広告を兼ねた運送用車両のそれ。その車両が担う機能は前述のとおりなんら突飛なものでない、至って普通のそれであった。ただひとつ『それが広告しているもの』を除けば。

トラックのコンテナには大きく人の顔がプリントされていた。写真には化粧品やアダルトコンテンツを宣伝する車によくある被写体の原形をほとんど喪失させてしまっているような加工はまったくされてなかった。むしろどんな家庭にもありそうなデジタルカメラで撮ったきりの無加工でありのまま、それでいてトラックのコンテナにプリントするにはあまりに荒い画質で、また前提として非常に場違いな、それは家族写真だった。
場所はどこかの公園だろうか、青々とした芝生の上に敷かれたブルーシートに腰をおろしピクニックをたのしむ家族の風景。サンドイッチを頬張る男の子は金髪で、頭の両側面にはハート型の剃り込みが入っている。その子の左右すぐそばには子どもを見守るようなやさしい目をした男性と女性。おそらく彼の父親なのだろう男性は黒のタンクトップを着ており筋骨は隆々、両肩には赤を基調とした刺青がびっしりと入っていた。母親なのだろう女性は耳と鼻をたくさんのピアス装飾しており、左手の人差し指と中指に細い煙草を挟んでいた。そんな家族の風景を収めた写真の下に赤色でプリントされた巨大なゴシック調の文字を変に間延びした舌足らずの女の声が延々と読み上げ続けていた。「「この顔に~『ピンッ!』ときたら~お電話を~」

「おじさん、お邪魔しま~す」
そんな出来事もあったが、しかしそれからなにかが起こりあれよあれよという間に不可解に巻き込まれジ・エンド、などといったフィクション的展開が降りかかることもなく、私の胸のうちには少しの気味の悪さが残るのみであった。そしてまたそれも泥のように眠ったおかげか、はたまた今年で小学3年生になる世界でいちばんかわいい姪のRが目を覚ましてすぐの私の目の前にいたからか、すっかり忘れかけていた。
「いらっしゃ~い」
「おじさん、まだ寝てたの!? もう夕方だよ」
「そっか、今日おかあさん夜勤かあ」
「『そっか』じゃないよ、もう。お風呂沸かしてるから、ほら起きて。ちゃちゃっとごはん食べ行こ。今日体育の授業がんばりすぎて、もうおなかぺこぺこだよぉ」

私にとっては姉になる姪の母は、姪のRがまだ赤ん坊のときに離婚してシングルマザーになった。女手ひとつでRをここまで立派に育てあげた彼女はいま夜勤のある仕事に就いており、自然その日の夜、彼女たちの家はRひとりになってしまう。それは姉も姪も不安ということで、だからときどきこうして姪のRは私の住むアパートへ泊まりにやってくるのである。

アパートから数分の定食屋で夕食を済ませ、お風呂も済ませ、姪の宿題を一緒にやって、定食屋からの帰りに寄ったコンビニで買ったアイスを食べてから歯を磨き、私たちは布団に入った。完璧な夜、完璧な放課後、完璧な休日がここにはあった。姪が天井を見つめ今日学校であったことを私に話す。その時間が私にはたまらなくしあわせなのである。この時間のためならいくらでも残業しちゃうぞ、そんな気持ちである。
「で、おじさんは今日なんかあった?」
今日あった出来事を話し終えたのか、姪が私に『次はおまえだぞ』とばかりに尋ねてきた。私は今朝見た不気味なトラックの話を姪にした。もちろんこわがる姪のかわいい姿見たさにである。だがしかし、彼女の反応は私の予測していたそれとは大きく異なっていた。
「あ~、おじさん見たんだ~」
「見たって、あのトラック見たことあるの?」
「それたぶん悪人引越しサービスのトラックだよ~」
「見たことあるの?」
「ううん。見たことないけど、でもなんか悪い人たちを見つけてどこか遠くに引越しさせちゃうんだって」

あまりに予想外の返答に私は面食らってしまっていた。「遠くって、どこなの?」
「知らなーい。でもちょっと前まで学校ですごい噂だったんだ。悪人引越しサービスのおかげでOくんが転校したんだって」
「Oくんって?」
「すごいいじわるな男の子。Rもね、一度お道具箱取られたもん。だからすっごいきらいだった。でもね、ちょっと前にどこかに引越ししていなくなっちゃた。Rね、Oくんには悪いけど、でも転校してくれてほんとはちょっとうれしかったんだ~」
「……そのOくんってさ、もしかして金髪でハート型の剃り込みが入ってる?」
「そうそう! おじさんなんで知ってるの?」
「ううん、なんでもないよ。ほら明日も学校だからもうおやすみ」
「ふ~ん、へんなのぉ……」言って姪は世界一かわいく微笑み、そのうちにすんと眠ってしまった。

「ってなことがあってな」
会社近くの喫茶店で私は姪との会話をMに話した。彼は私が参加していたカルチャースクールの文章能力向上講座の同級生で、卒業してからなお付き合いが続いている。私も彼も念願叶って文章に携わる仕事をしているというのがいまなお続く付き合いのきっと最も大きな理由であるが。普段から密に連絡を取り合うような仲ではないが、会うといつもまるで昨日会って遊んだような気軽さで話せてしまう。彼とのそんな間柄を私は好ましく思っている。
「なんか気味悪いだろ」
「たしかに。けれどけっこうおもしろそうだな。ちょっと調べてみるわ」
彼はいま月間のアダルトゴシップ誌の編集兼ライターのような仕事をしていて、怪談や都市伝説をでっちあげ記事にするページを担当しているらしい。いまどき珍しい類の雑誌の仕事は想像していた数倍はたいへんで、けれどもたのしいものだそうだ。
「今度焼き肉な」言って私は煙草に手を伸ばした。
「高くついたなあ」言ってMはコーヒー啜った。 

それから数日後、世界一かわいい姪がまた泊まりにやってきて、布団のなかに入ってしばらく話して、それから最後にこう言った。
「そういえば、Rね、こないだやっと見れたんだあ」
「なにを見たの?」
「悪人引越しサービス!!」
私は「おっ!」と思い、またMに貸しをつくれるなあなど内心でほくそ笑んだ。『今度は寿司だな、そうしよう』Mに対する意地の悪い算段をあたためていた私は、しかし姪の次の言葉によってそれが今後永劫叶わぬものとなっていたことを知る
「Rね、びっくりしちゃった。だってMおじちゃんの顔がトラックにとっても大きくプリントされてたんだもん」
「MってあのM?」
「うん。おじさんが一緒にお酒を飲みに行くあのMおじちゃん」
「……まあ、あいつ悪人みたいな顔してるもんなあ」
「Rね、一瞬で『ピンッ!』ってきちゃってね、公衆電話でね……」
『いや、まさかな』私は内心でつぶやき、へへへと笑い、それからすぐ姪と眠った。

以降、Mとは連絡が取れないままでいる。