似非随想録

「幻によろしくな」

ごはん問答

近所に行きつけの定食屋がある。長い年月を感じるのれんと店内に染み付いた油のにおい。白髪まじりの店主はいつも機嫌が悪そうな顔をして厨房に立っており、きっと近所の大学にかよう女学生であろう給仕はいつもニコニコ笑っている。オーガニックがどうのミシュランがやいのなんてこととは無縁の店であるのだが、いやだからか、私はそこはかとなく落ち着くのである。料理はどれも飛び抜けてうまいものではない。米が硬かったり千切りキャベツが苦いといったこともままある。けれども量がそこそこあり、店内は食べ盛りの学生たちでいつもそれなりにぎわっているそうだ。私がそこに足を運ぶのは週一度、それも多くが土曜日の昼過ぎだから、大抵は学生もあまりおらず空いているのだが……決まっていつもうるさい学生3人組がいるのである。

3人組はこの定食屋の近所にある大学の学生らしく、彼らがいま何年生であるのかなど詳細は不明だが、みな『美食同好会』なるなんとも怪しげなサークルに所属しているらしい。これは誰にとっても有益でない情報であり、私も別段みずから精を出し調べたわけでない。店内で話す彼ら3人の声が大きいから聞こえた、ひとえにただそれだけの話である。それから次いで迷惑な話であるが、私と彼らが店に赴く日というのはほとんど同じようで、店の扉を開けるとだいたいいつも彼らがいるのだった。聞き覚えのある声が店のなかから聞こえてくる度、私は深いため息をついている、そんな次第である。

そんな奇妙な偶然が高頻度で重なったこともあり、まったく不要なのだけれど、私は彼らの諸々について少しずつ知っている。禿頭のHはいつも焼サバ定食、肥満のDは丼と麺類を1品ずつ、金髪のRは唐揚げ定食をサラダ抜きで頼んでいる。禿頭のHはお冷には手をつけず持参の魔法瓶からなにやら怪しげな液体をグラスに注いで飲み、肥満のDはいつもだれかのおかずを隙あらば奪おうと鋭い目つきで麺類をズルルと啜っている。金髪のRは「魚なんかのなにがうまいんだよ、ハゲ。やっぱ肉だろ、肉」とHを罵っては唐揚げを毎度気持ちよい食べっぷりで頬張っている。彼らはそんなふうにして各々の目の前の盆の上にあるものをもぐもぐ食べ以て、さまざまな食べ物の話をするのである。『なにか食べながらよくまたさらに別のメシの話ができるな』と遠巻きに感心しながら私はいつもみそ汁を啜っているのだが、彼らから『ピータンのつくりかた』を聞けたのはよかった。まさかたまごを土に埋めるなんて……。先週参加した街コン、その二次会がおこなわれた中華料理屋のそこそこするコース料理の前菜で出てきたピータンを前にその話をするとややウケたのである。いやはや、これもまったくどうでもよい情報であるのだが。

そんな彼らであるが、先週と今週の2週にかけて少し気になる話をしていた。
「ついに手に入れたんだよな」言ってRは唐揚げを食べる手を止めた。
「というと?」禿頭のHがずれつつある眼鏡をくいとあげ、いつもの怪しげな液体を飲み以てRを見つめる。肥満のDはどうにも食べる手を止められない様子。『彼女でもできたんか?』など思いつつ私はデミグラスハンバーグを口に運んでいた。
「ほら、これ」言ってRは得意げな顔で名刺サイズのなにかを2人に向かって掲げている。どうやらなにかのチケットらしいそれを見てHはレンズの奥の小さな瞳をめいっぱいに見開いていた。「おいおいR、おまえそれどうやって……」
「おいデブ、食う手を止めねえか……俺な、明日『ごはん問答』に出てくんだよ」Rは半分にやけ顔でDにそう言った。
「すごいじゃん」言ってDはきつねうどんのだしを飲み干した。「都市伝説だと思ってたよ。ほんとにあるんだね」
『いや『ごはん問答』ってなんなんな……』みそ汁を啜りつつ私が困惑していると、なにやらHの様子がおかしい。
「たしかにおまえの食識にかなうやつなんてうちのサークルにはいないけど……」言って彼は謎の液体をぐびりと飲み干した。「負けたらなんでも『人生のたのしみ』をひとつ奪われるって言うぜ?」
「ハゲ、そこに未だ辿りつけもしねえおまえがびびってどうするよ?」Rが威勢よく言った。「いつもいつも魚なんてもんばっかり食ってるからだ。かしこくなったって、ここってときに芋引いてたらなんにもなんねぞ、ハゲカマ野郎がよ。男らしくもねえ」「ねえR、それに出てきみにメリットはあるの?」食後のポテトサラダを注文しつつ、DがRに尋ねた。その問いにRは失笑し、それからDをまっすぐまなざし応えた。
「まず、参加するだけでシャトーブリアンが食える」刹那、Dの様子が急変するのが私にもわかった。とはいえシャトーブリアンだけでそこまで変わるって学生はかわいいものである。
時価1000万のな……」それを聞いて私もお冷をぐびりとひとくち飲み、背筋を伸ばした。
「それってただのシャトーブリアンじゃないよね?」
「もちろん。肉の帝王、別名『グランシャトー』だ」そこまで言ってRは残っていた定食を完食しにかかった。
「参加するだけであの『ブリアンカイザー』を……」言ってDは唾液が止まらない様子。彼は女学生の給仕が運んできたポテトサラダをひと息に丸飲みしてしまった。女学生はDの暴食行為にも動揺せず、ニコニコと笑っていた。私はドン引きしてしまって箸でつかんだプチトマトを思わず皿の上に落としてしまった。「それで、勝利できたらどうなるの?」
「そうだな……」完食したRは煙草に火をつけ煙を吐いた。「俺は今度こそ正式に『ごはん問答師』の資格を得る」
「R、危険すぎる。やめておいたほうがいい……」先ほどからずっと黙っていたHがまだ半分以上残っている焼サバ定食に視線を落としつつ言った。
「俺の実力にもの申したいなら聞いてやるが?」RがHを睨みつつ言った。「おまえも知ってるだろ? 俺が『保有者(ホルダー)』だってこと……」
「俺はおまえが心配なんだよ。おまえが『似非ごはん問答師』なんて蔑称で食問界隈から揶揄されてたことも知ってる。そんなやつらを見返したい気持ちも痛いほどわかる。けどな、それに負けたときの代償がどうにも気になる。胸騒ぎがして止まんのだ……」

私は話の続きをもっと聞きたいあまり、気付けば残りわずかのハンバーグを驚くほどゆっくり、まるでそれを挽肉へと分解するが如くちびりちびり食べていた。煙草を吸い終えた金髪のRが席を立つ。「わりいな。俺は勝たなきゃなんねえんだよ。ごはん大王に」言って彼はそそくさと会計を済ませ店を出て行った。
「なんでだよ……」Rの背中を見送りまもなくして禿頭のHはしくしくと泣き始めた。「ごはん大王だぞ? そんなのみずから死にに行くみたいなもんじゃないか……」
「どうしたんだ? サバの骨、喉に刺さっちゃた?」泣き始めるHを見つめ、肥満のDがオロオロし始めた。「そんなときはね、ごはんを飲み込めばいいんだよ」
「飲み込まれちまうのは、Rなんだよ……」

私はニコニコと笑い続ける女学生の給仕に食後注いでもらったお冷を飲み干し、泣き崩れるHとDに後ろ髪引かれながらも店を後にした。

それから今週まで、私のあたまのなかは『ごはん問答』や『ごはん大王』といったことでいっぱいだった。ネットで検索しても有益なものはなにひとつヒットせず、肉の帝王『グランシャトー』の情報すらなにひとつ得られぬままだった。そんなふうだったからか、こんなにも土曜日を待ち侘びたことはなかった。私がいつもの時間に、いつもよりも若干の勇み足で以て定食屋に足を向けると、道中、私の目の前を金髪のRがひとり背をひどくまるめて歩いていた。彼はそのまま定食屋へと入っていき、私も彼に続いた。店内には禿頭のHも肥満のDもいないようで、私は先週のことを思い出して少しだけ彼らの友情を案じつつ、味噌カツ定食を注文した。Rは席に着いてからも注文する様子がない。普段ならば着席前に唐揚げ定食を注文する彼だが、今日は店内壁面に貼られた手書きのメニューをしげしげと眺めていた。それから数分後、彼はぽつりとつぶやいた。「焼サバ定食で……」
「焼サバ一丁!」女学生の給仕が威勢よく注文を伝えると、店主が眉間に皺を寄せ、珍しく言葉を発した。「……にいちゃん、唐揚げは?」
「いいんです、もう肉は。俺も少しは賢しくならないと……」そう言ってRは煙草に火をつけた。店主は首を傾げ、油に投入される寸前の姿のまま鶏肉を冷蔵庫へ戻した。

それから数分して定食ができあがり、可も不可もないあじわいの味噌カツを頬張りながら『先週の話の続きはもう聞けないのかなあ』と落胆していると、店の扉がガラガラと音を立て開いた。そこには肩で息をする禿頭のHと汗だくで息も絶え絶えの肥満のDが立っていた。
「……よぉ」Rが彼らに手をあげて言った。「まっ、とりあえずメシ食おうや」
HとDはRに招かれるまま席に着き、それからまもなく大声で泣き始めた。私はなにごとかわからずすっかり箸が止まってしまった。困惑した表情のまま店主のほうへ目をやると、店主もまた困惑した表情で私のほうを見ていた。そのままふたり同時に奇妙な3人組へ視線をうつす。女学生の給仕は変わらずニコニコと笑っていた。HがRに向かって言う。「おまえ、なんで焼サバなんか……」
「H、おまえを見習わなきゃなって思ってな。俺は愚かだったんだ。魚食べてかしこくなんないとな!」
「……R、ほんとのことを言えよ」
「……もう感じないんだよ」それは平坦な声音ではじまって、Rの言葉は徐々に震え始めた。「味がさぁ、ないんだ。なに食べても味がしねえんだよぉ!!」
「きみが奪われた『人生のたのしみ』って、もしかして……」ぴたりと泣き止んだDが言って、Hがそのあとに続いた。「『味覚』なんじゃ……」
「…………」

それはなによりも雄弁に語る沈黙だった。

これからあとは泣きながら話す彼らの言葉を私がそのときの記憶を頼りに断片的にまとめあげたものになる。
Rは先週言っていたとおり、例の『ごはん問答』とやらを『ごはん大王』に臨み、敗れたらしい。敗因は数あるそうだが、『鋭角から亜音速で飛んできたチャンジャ』と『あとから響いてくるアスパラガス』によるコンビネーションがあまりに強烈だったらしい。しかし彼はそれらを得意の『激昂するいちごジャム』と秘伝の『曖昧模糊なる概念フィットチーネ』による布陣で以て耐え抜いていたそうだ。しかしその間隙を縫うようにして潜り抜けてきた『星々を喰らう子持ちししゃも』によって彼は貫かれ、結果としてそれが彼が敗北する決め手となったそうだ。
聞き馴染みのない言葉の組み合わせからなる戦略がいったい彼にどれだけのダメージを与えたのか、私には想像できない。できないが、どうやら彼ら3人組から言わせれば『外道』と言って遜色ないごはん大王の攻撃が彼から味覚を奪ったこと。それが紛れもない事実だということ。それだけは私にもわかった。なぜなら、彼らが流す涙がまったく偽物のそれには見えなかったから。あれが演技なら彼らは全員よい役者になれるだろう。
そのあと彼らはわんわんと泣き続け、店主は『彼らは薬物でもしているのではないか?』と疑い始め、通報。まもなくやってきた赤橙に照らされた美食同好会の3人組はみなパトカーに押し込まれ消えていった。
私はそれら事の顛末をすべて見終え、すっかり冷え切った味噌カツを食べ切り、会計をして店を出た。謎は深まるばかりだったが、若者の涙と現実を超えるらしい超常の気配に少し寒気を感じながら帰り道を歩いた。