似非随想録

「幻によろしくな」

台所スイーツ

「それでは次は2班のみなさんの発表です。よろしくお願いします」
小学3年の初秋、灼熱の夏季休暇を終え学び舎へと舞い戻った我々2班は本番を迎えていた。本番とはつまり実践。実践とはつまり正念場。家庭科の授業内で厳かに執り行われた夏季休暇のグループ課題発表の儀である。
白髪の混じり始めた老齢の女教師が我々を戦場へと誘う口上を宣ってからのち、しばしの沈黙。教室内の空気は破裂するそのときをなにより雄弁に語る無音で以て窺っているようだった。少し開いた窓から入ってきたぬるい風が小生の前髪を揺らした。小生が生唾をごくりと飲み込んだのと同時、我々2班の大将であるLが口火を切った。彼は緊張で乾いた唇をちろりとひと舐めしてのち、震える声で言った。
「ぼくたち2班は『台所スイーツ』を調べてきました。一生懸命に研究したので聞いてください」
声変わりの完了を確認できないトレブルティックなLの宣言に、しかし間髪入れず続いたのは悪意を多分に滴らせたいがらっぽい男の声。学校中でも邪悪であることでその悪名を轟かせていた悪餓鬼のNだった。
「なんだよ『台所スイーツ』ってよぉ。おまえら女か? オカマ野郎がよっ!」
Nの野次を受け教室内の緊張が一気に高まる。その微妙な変化を感じ取ることのできない哀れな老齢の女教師がひとり「こらN、静かになさい」などと耳障りな声で吠えていた。
「……うるせえな、ボケ」
教室内の檀上、小生の隣に立つ2班でいちばんの荒くれ者Uが小さな声で吐き捨てた。
「なんだてめえ?」
聞き捨てならぬとN、小生は肝を冷やしつつ言う。「まあまあ、とりあえず聞いてよ、発表」
そんな我々3名をちらりと見て、ひとまずの収束を確認してからのち、Lは続けた。
「まずはぼくらが調べてきた『台所スイーツ』について説明します。じゃあO、お願い」言ってLはOへマイクを手渡した。

Oは我々2班でいちばんおっとりしており、またふっくらもしており、そして心根のやさしい者であった。教室内の注意がLからOへ切り替わるのがわかった。彼はつやつやぷるぷるの頬を両方真っ赤にし、極度の緊張で異様なまでに発汗していた。冒頭に述べたとおり、季節は初秋、灼熱苛烈を極めた夏季休暇はもう既に去っている。
「大丈夫?」
小生がOへと呼びかけた気遣いの声を掻き消すように悪餓鬼Nが嬌声をあげる。「おいブタ、さっさとやれよっ!」
「……てめえも大概ブタだろうが」
Nの野次に再びUが噛み付いた。
「U、てめえぶっ殺されてえのか?」
「ちょ、やめなよぉ」
荒くれ者ふたりを制止しつつも小生は緊張と恐怖で胸がいっぱいで、いまにも失禁してしまいそうだった。気持ちを落ち着けようと何度も深呼吸をしたことを昨日のように覚えている。
「あの……『台所スイーツ』というのは……」しばらくしてOがようやっと説明を始めた。「それぞれのお家にある、おやつのようなもののことです……ちなみにぼくの家の『台所スイーツ』は、おかあさんがつくってくれる焼きプリンです」
「それの食い過ぎでブタになったんだろ? おまえのおかあさんもブタだもんなっ! きもいんだよ、ブタ親子っ!!」
Nの暴言に教室内が静まり返る。少ししてOがすすり泣く音が教室の静寂を埋めた。「おいおい、そんなことぐらいで泣くなよな」
「N、あなたちょっと先生と職員室に来なさい!!」
子供とはいえ人ひとりの心からの涙を見て、悪餓鬼のNもさすがに狼狽えているようだった。そこへ空気の読めない哀れなる老齢の女教師が好機とばかりに大人権力を発動しかけたところをUが制止した。「先生、それはちょっと困る。そこのクズにも聞いてほしいんだ、俺らの発表」
そうして再び教室は静かになる。老齢の女教師も悪餓鬼もNも戸惑っている様子だった。Lが「O、ありがとね」と言い、Oから再びマイクを受け取った。小生はまだ少し泣いていたOの背中をさすってやった。

「ぼくらはこの夏休み、何度か集まって2班のみんなの『台所スイーツ』をつくったりしました。今日はそのなかでもいちばんおいしかったUの家の『台所スイーツ』のつくりかたを発表したいと思います」
「へーすごい」「たのしそう」などと言った声が先ほどまで静かだった女生徒たちからあがる。それを聞いたNが不快そうな顔で我々2班を睨んでいた。Lが続ける。
「今回、Uの家でつくった『台所スイーツ』は『ガニャリパ』です」
「えっ?」「なに?」「ガニャリパ?」先ほどまで期待していた女生徒たちが一転、聞いたこともないスイーツの名前を聞き困惑していた。灼熱の夏季休暇中、U家にてはじめてガニャリパの名を耳にしたときには小生も同じような反応を示したものだ。
Nが「きもちわるいんだよっ!」と怒鳴り、老齢の女教師から体罰を受けていた。「体罰っ! 体罰っ!」と抗議するNを無視してLが続けた。
「ガニャリパはUくんのお家でずっと受け継がれているお菓子だそうです。今回はUくんのおばあちゃんがぼくたちの研究に協力してくれて一緒にガニャリパをつくってくれました。つくりながらUくんのおばあちゃんにガニャリパのことをいろいろ教えてもらいました。ガニャリパの歴史は長いそうで、Uくんのおばあちゃんも子供のころに自分のおかあさんから教えてもらったそうです」
言ってLが小生に目配せをする。小生は何度も綿密に繰り返した打ち合わせのとおりプロジェクターを起動、コンピュータをぽちりと操作して黒板の前に掛けられたスクリーンにガニャリパの写真を映し出した。
「うわっ」「なんかこわい」「ぞわぞわする」などといった声が、今度は女生徒のみならず教室全体から聞こえてきた。その驚嘆のざわめきに耳を澄ませながら小生も静かに首肯する。過ぎ去りし灼熱の夏季休暇の只中、はじめてガニャリパを目にした小生もまったく同じ驚嘆に身を震わせたのだから。ちらとNのほうを見ると、Nは両手両足を椅子に縛られ猿轡をされたていた。あまりに騒ぐためか、老齢の女教師が施した処置であろう。後ほど知ったことであるが、老齢の女教師は、その昔、まだ彼女がうら若きころにある高級娼館の人気娼婦として労働していたそうだ。そう、これは余談である。

「これがガニャリパです。みんな見たことないですよね。おいしいんですよ」
「こんなの食べられないよ」「きもちわるい」「吐きそう」などと言った罵詈雑言があがるなか、しかしLはまるでなにも聞こえていないかのように淡々と進行していく。そのさまは「まるでなにかに取り憑かれているようだった」と、当時発表を聞いていた女生徒のひとりは語っている。
「では、材料とつくりかたを紹介していきます」言ってLはUへとマイクを手渡した。

「えー、まず材料っすけど、小麦粉300g、砂糖60g、卵黄2つ。これをボウルに入れてよく混ぜます。フライパンにバター適量をひいて加熱します。フライパンをあたためているあいだにネマリャーンを3匹、生きたままミキサーにかけます」
「ネマリャーンってなに?」「生きたまま……」「残酷だよ」聴衆の困惑は膨張し続け、少しずつ騒がしくなる。その様子を見て、泣き止んだOがはにかんでいた。
「この反応、なつかしいよね」小さな声で小生に語りかけるOに小生も笑顔で応答した。「だねっ」
「フライパンがあたたまったら、えー、先ほどミキサーにかけたネマリャーンを緑色に発光するまで炒めます。ほのかにキンモクセイのような香りがしてきたら、先ほど混ぜたボウルの中身をフライパンへ流し込んで焼いていきます。」
「だからネマリャーンってなんなの?」「いや、そもそもガニャリパがわかんないから」「緑色に発光するものって食べても大丈夫なのかな?」などといった声が遠慮なく教室内を飛び交っていた。老齢の女教師の注意する声は最早だれにも届かなくなっていた。ただひとり、Nだけが身動きも取れず、困惑を口にすることもできず、椅子の上に縛られてガタガタと悶えていた。
「えー、それからよく焼いたらガニャリパの完成です」
「だからガニャリパってなんだよ」「もしかしてふざけてる?」「ちゃんと発表しろ」困惑が徐々に我々2班に対する罵詈雑言にと変化しつつあることを察知してか、Uがマイクで注意をしようとしたところにLが「うるせえ!!」と怒鳴り、再び静寂。教室内の空気は緊張で張り詰めていた。老齢の女教師やNも含め、全員がLの豹変に驚いていた。UがLのほうを見て微笑み、Lも微笑む。それを見て小生とOも微笑んだ。Uが穏やかな表情でマイクへ向かった。

「えー、これで俺たち2班の発表は終わりなんすけど、最後に、実は今日ガニャリパ持ってきてるんすけど、誰か食いたいってやつ、いる?」
「はい!はい!!」Uの問いかけにOが真っ先に反応し、頬を真っ赤にして手をあげた。「ぼくらは発表する側だからさ、また今度にしよう」そう言ってOを諫めつつ、小生は教室全体を見渡した。だれも手をあげてはいない。それを確認してのち、小生はUへと目配せした。Uは笑って続けた。
「えー、だれもいないようなんで、じゃあこっちで食べてもらう人決めまーす」
Uの宣言に教室がまたざわついたが、Lが一度強く教室の床を踏みつけたことでそれはすぐに収まった。
「Uさん、そのガニャリパっていうのはホントに食べても大丈夫なのかしら?」
先ほどまで静かに見守っていた老齢の女教師がUに問うた。Uが「じゃあ、先生が食べて確かめます?」と問い返すと「いいえ、遠慮しておきますわ」

「えーっと、じゃあN、おまえに食ってもらうわ」
突然の指名にNは激しく悶えた。眉間に皺を寄せふがふがと抗議の声をあげている。猿轡を経由して彼の唾液が教室の床に滴るのを見て小生は眉をひそめた。
Lが暴れるNを取り押さえ、Oが猿轡を外し、小生がガニャリパの入ったタッパーを準備した。Uが小生からタッパーを受け取り開けると途端に教室内から「くせえ」「なにこれ」などと言った声があがり、なかには嘔吐する者も現れ始めた。
「てめえマジでぶっ殺すぞっ!」
必死の形相で虚勢を張るNに、しかしUは笑って応えた。「おまえのその性格はな、病気なんだよ」
「意味不明なこと言ってんなマジでっ!きもいんだよおまえ!!」
「オッケーオッケー。じゃあ、まあ食べてみてよ」
言ってUはガニャリパをNの口にねじ込んだ。 

その授業からあと、Nは人が変わったようにおとなしくなり、成績もグングンと伸びて、卒業後は県でも有数の進学校である私立中学校へと進学した。
そんなNだが、先日テレビに出演していたのを見て小生はたいへん驚いたものである。なんでも彼はパティシエになったらしく、来年を目処に彼がプロデュースした洋菓子店が全国展開をはじめるということだった。
『小学生のころに食べた味が忘れられなくて……』そう語る穏やかな男の声音に、かつての悪餓鬼の影は見て取ることもできない。『ガニャリパっていうお菓子なんですけど……』

「おまえ見た?」
我々2班はいまでも定期的に集まり、酒など酌み交わす仲である。人生における青春を彼らとともに過ごし、またこれから始まる朱夏をも小生は彼らと過ごせたら、と思っている。
「あー、見た見た。あいつ一生ガニャリパって言ってたんだな」
「ガニャリパ一筋って感じの人生だったんだろうな」

そんなこんなで話は続き、たのしいお酒は止まることもなかった。そんな折にふと私は気になってUに聞いてみた。「結局さあ、ガニャリパってあれなんなの?」
「そうそう、気になってた。ネマリャーンってやつも」続けてOも言う。

小学3年の灼熱の夏季休暇のあいだ、サボりにサボっていた小生とOは休暇が終わる土壇場でUへと泣きついたのである。Uは快く受け入れてくれ、我々ふたりの名前をグループのなかに入れてくれた。であるからして、実際に小生とOはガニャリパを食べておらず、ネマリャーンがいったいどういったものであるかも未だわからないままでいる。だからか、当時から食い意地の張っていたOが本番でさえ自身の食欲を制御できなかったことは発表後も事あるごとに我々2班のあいだで語り継がれていた。
「さあな」そう言うUに加勢するかのように唯一ガニャリパを食べ、つくっているLが言った。「まあまあ、いいじゃないか」
「なんだよL、おまえは知りたくないのかよ?」ほろ酔いのOがLに絡むのを見て小生も続けた。「そうだそうだ。おまえだけずるいぞ」
「それはだなあ、おまえたちも最初から参加してれば……」
「昔のこと言われたってしょうがないもんなあ?」「そうだそうだ」
「うるせえ!!!」
およそ成人男性が公衆の面前で出力してはならない程度の感情の発露をしたLに小生は震えあがった。それはOも同じようで、彼は一気に酔いが醒めたようだった。
「どいつもこいつもよぉ、うるせえんだよ……」言ってLは虚ろな目をしてビールを呷った。
「おいL、飲み過ぎだ。ちょっとトイレ行こうぜ。顔洗えば頭も少しは冷えんだろ」言ってUが立ち上がり、彼はLに肩を貸した。
その日、解散してからあとUから1件のメールが入った。「まあ、食いたくなったんなら言えよ。つくってやるから」

それから数年後、小生はまだUに本心を伝えられずにいる。

誰得できるかな

こんなゲームをご存じだろうか。その名も『誰得できるかなゲーム』。必要な人数は3人以上。ルールは簡単。3人のうちのふたりが向かい合いじゃんけんをして先攻後攻を決める。残りの人間は審査員として彼らを見守る。後攻が「誰得できるかな?」と言ったあと先攻が『ギリギリ誰かが得をすること』を述べる。先の手順を次は後攻の人間も繰り返す。それからあと、ふたりが述べた『誰得状況』を審査員が吟味、よりギリギリを攻めていたほうを勝者とする、といった外連味たっぷりのケッタイなゲームである。

高校生のころの私と数少ない友人であるPとJは、いま思い返せばまったくたのしそうでないこのゲームに、しかし短い期間ではあったがドハマりしていた。年ごろ特有のニキビと脂ぎった顔面にクツクツと気味の悪い歪な暗黒微笑を浮かべながら、教室や放課後のマクドナルドの片隅で、スクールカースト延いては社会の最底辺で『誰得できるかなゲーム』に興じていた。

私はもっぱら下品な誰得状況を攻めることを得意としており、一番のお気に入りには『大衆の面前で意図的に大便を漏らしたにもかかわらず必死の形相で代弁することを悦びとする校長』がある。そのときの対戦相手はJ、審査員はPが務めていた。Jは「あまりに下品であり、これを『誰得状況』とするには、そう、あまりに下品」と繰り返し、Pは「人間の業を煮詰めたような性的趣向があり、大便と代弁で以て押韻しているところにも言語的美点が光る」と意味不明な称賛をくれた。

Jは3人のなかで最もオーソドックスな誰得状況を攻めることを得意としていた。彼が放った誰得状況で印象的だったのは「飲み会の席などにて、残りひとつとなったつまみを遠慮なく食べる嫌われ者」というものだ。このときの対戦相手はP、審査員は私が務めていた。私はこれに対し「割とみんな得するような状況だし、誰得状況ギリギリではないのでは?」と言いPの繰り出した誰得状況『宇宙でさまよい続けるさみしがり屋のネギトロ』に票を入れようとしたが、Pは一貫して「これはきみが本当になりたいけれどどうあってもなれない、真の意味での理想の人間像だろう」と意味深なことを言い、Jに勝ちを譲る態度を取った。Pのその奇異な態度に、しかしJは少しうれしそうに、けれどもそれを私たち二人に悟られまいとしてか、伏し目がちに微笑んでいた。
そんなJの好きな言葉は「中庸」であり、それは彼の生活態度の指針でもあった。であるからして、本来の彼の信条と『誰得できるかなゲーム』は相反するだろうと思っていた私は以前に一度彼に尋ねたことがある。「このゲームをきみは嫌悪しているんじゃないか?」と。彼は放課後のマクドナルドでハンバーガーをかじりながらこう応えた。「道を踏み外したなら、元の道に戻ればよい。けれどもだ、自分の信じた道への戻り方を知るには、人は一度自分の信じた道から外れなければならない。ときに人は中庸から外れることも大切だ。そういうことだよ、きみ」

Pは私たち3人のなかで最も突飛で、有体に言えばクラスに一人はいる『なにを考えているのかわからないやつ』だった。彼の繰り出す誰得状況はいつも現実にはありえない状況で、それはほとんど詩的であった。彼のもので印象的だったのは『笑顔の三角に詰め寄る怒り顔の四角のツーショットを泣き顔で見つめる立方体』というものだ。もはや誰得でもなんでもない、想像も不可能な状況をPは好み、いつもたのしそうな声でそんな意味不明を高らかに宣言するように言った。その度にJは「ルールを守れよ」と泡飛ばし、私はそんなJの様子と彼をうれしそうに見つめるPの両者を視界に入れ苦笑していた。

そんな私たち3人の痛々しい青春もいまは昔、はるか20年も前のことである。高校卒業後、私たちはそれぞれ別々の大学に通い、初めのころこそ連絡を取り合っていたものの、それも次第になくなり、社会人になるころにはめっきり疎遠になっていた。また私もJもPも同窓会に出席するような人間でもなく、だからそういった場所で再会するというようなこともなかった。そんな私たち3人が、けれども近ごろ思わぬかたちで再会することがあった。

「再会とはいえ、こんなふうなのは最悪だな」
そう言って深くため息をつくJを横目に私はなにも言えずにいた。約四半世紀ぶりの再会であることもそうであったし、再会の理由もそうであったし、なによりJの変貌ぶりに戸惑いを隠せなかったからである。
「おまえさ、禿げあがったんだなあ」
やっとの思いでそう言った私にJが苦笑して言う。「久しぶりの再会の一言目がそれなのか。おまえは変わらないな」
学生服を着てぶっきらぼうにこちらを睨む、額縁に綺麗に収まった20年前の姿のままのPがそんなぼくらを見ているような気がした。

10年ほど前に世間を賑わせていた幼女連続殺害事件があった。事件当初、しばらくのあいだはどのチャンネルを回してもその事件のことばかり報じていてうんざりしたものだが、そんなメディアの執着の甲斐もあってか犯人はすぐ逮捕され、それから以降めっきり聞かなくなっていた。そんな割とどこにでもある凄惨な事件だが、数年前に真犯人が捕まったらしくまた世間を賑わせた。つまり、当初逮捕された犯人はまったくの無実だったのである。SNSのタイムラインの合間にそのニュースを見た私は「気の毒に……」とまさに他人事のように思ったものである。大学のサークルで出会った彼女、現在の妻がそんなぼくの隣で「あんまりよ。あまりにひどいわ」と憤慨していたことも覚えている。そして、その彼女の声に泣き始めてしまった当時赤子だった、現在小学1年生の愛娘の泣き顔も。

「まさか誤認逮捕されたのがPだったなんてな……」
通夜のあとに入った居酒屋で、赤ら顔かつ禿げ頭のJがぽつり呟いた。Pは10年ものあいだ無実の罪で檻のなかで過ごしたそうだ。笑顔の三角、怒り顔の四角、泣き顔の立方体、そのあいだの彼の気持ちを、私たちは想像することもできないだろう。10年ぶりに刑務所の外へ出たPが抱いたのは希望だったのか、はたまた別の……。彼は出所後、社会復帰にたいへん苦労したそうだ。家族との関係も以前のようにとはいかず、きっととても苦しんだに違いない。ある日、母親がPの部屋へ夕食を持って上がった際には、彼はすでにこの世を去っていたそうだ。

それからあと、私とJはPの死から目を背けるみたいに昔話に花を咲かせた。そして話の合間にJは繰り返しこう言った。「中庸ってのはさ、難しいな」
そんな私たちの再会にも次第に沈黙が増え始めたころ、「宴も酣だけど、俺、明日も朝早いからさ、もう行くわ」Jはそう言ってテーブルの上に残っていた焼き串の最後の一本をなんのためらいもなく頬張り、机の上に万札を数枚置いて店を出て行った。
「俺さ、いま社長やってんだよね。けっこう稼いでんのよ。釣りはもう気にせず取っとけよ。おまえみたいに結婚はまだだけど、もういいかなって思ってる。会社でもワンマンな態度取っててさ、嫌われ者が板についちゃったしねえ」

そんなJの捨て台詞と猫背の背中と禿げ頭を思い返しながら、私は決して線路から踏み外さない帰りの電車のなか、Pが生前に母親との最期の会話で漏らした言葉を反芻し続けた。

「生きるって、誰得なんだろうね」

そんな意味深なメッセージに既読がつき、妻から返信がやってくる。
「『おとうさんまだぁ?』だって。かなしいこともあるけどさ、ほかにもいろんなことが私たちを待ち受けてるよ」
それからあと愛娘の眠たそうな写真も一緒にやってきて、そうこうしないうちに乗り換えの駅に着くことを車内アナウンスが私に知らせた。

悪人引越しサービス

終電の時間を裕に過ぎてなお続いた仕事を終えた日のこと。私は私以外誰もいない会社のソファに倒れるように沈み込み、さまざまな鳥たちがいよいよその耳障りな鳴き声とともに爽やかな朝を運んでくる直前の時間まで眠った。それから地下を騒々しく這う鉄の蛇が目を覚ます頃合いに会社を出、駅の方へ歩いた。左手には夜のうちにすっかり雨が降り止んだせいで当初期待されていた活躍の機会を根こそぎ奪われたビニール傘、もう片方にはスリーファイブオーエムエルの缶ビールを携え私はゆらゆら帰路を歩いていた。そのときに見たトラック? 宣伝車? なんというかとにかく尋常ならざる風体の自動車が非常に不気味で印象的であった。

「この顔に~『ピンッ!』ときたら~お電話を~」

まだまだ人もまばらな薄暗い明け方の街にこだまする、変に間延びした舌足らずな女の声。女の声は録音らしく、私の少し後方でそれは何度も同じ言葉を繰り返しながら徐々に私との距離を縮めた。信号が赤に変わり、私と騒音は道路交通法を遵守し一時停止。早朝という状況と長時間の労働と少々の睡眠とで疲労していた私にとってその騒音は不愉快極まりないものだった。いやしかし、なんだかあまり聞き慣れないアナウンスである。「ふつうは『この顔にピンときたら110番』だろ」など思いながら私は騒音のするほうへ視線をやった。そこには変に間延びした舌足らずな女の声を再生し続ける一台のトラックがあった。繁華街を歩けば、近頃はよく目と耳に情報をねじ込んでくる類の広告を兼ねた運送用車両のそれ。その車両が担う機能は前述のとおりなんら突飛なものでない、至って普通のそれであった。ただひとつ『それが広告しているもの』を除けば。

トラックのコンテナには大きく人の顔がプリントされていた。写真には化粧品やアダルトコンテンツを宣伝する車によくある被写体の原形をほとんど喪失させてしまっているような加工はまったくされてなかった。むしろどんな家庭にもありそうなデジタルカメラで撮ったきりの無加工でありのまま、それでいてトラックのコンテナにプリントするにはあまりに荒い画質で、また前提として非常に場違いな、それは家族写真だった。
場所はどこかの公園だろうか、青々とした芝生の上に敷かれたブルーシートに腰をおろしピクニックをたのしむ家族の風景。サンドイッチを頬張る男の子は金髪で、頭の両側面にはハート型の剃り込みが入っている。その子の左右すぐそばには子どもを見守るようなやさしい目をした男性と女性。おそらく彼の父親なのだろう男性は黒のタンクトップを着ており筋骨は隆々、両肩には赤を基調とした刺青がびっしりと入っていた。母親なのだろう女性は耳と鼻をたくさんのピアス装飾しており、左手の人差し指と中指に細い煙草を挟んでいた。そんな家族の風景を収めた写真の下に赤色でプリントされた巨大なゴシック調の文字を変に間延びした舌足らずの女の声が延々と読み上げ続けていた。「「この顔に~『ピンッ!』ときたら~お電話を~」

「おじさん、お邪魔しま~す」
そんな出来事もあったが、しかしそれからなにかが起こりあれよあれよという間に不可解に巻き込まれジ・エンド、などといったフィクション的展開が降りかかることもなく、私の胸のうちには少しの気味の悪さが残るのみであった。そしてまたそれも泥のように眠ったおかげか、はたまた今年で小学3年生になる世界でいちばんかわいい姪のRが目を覚ましてすぐの私の目の前にいたからか、すっかり忘れかけていた。
「いらっしゃ~い」
「おじさん、まだ寝てたの!? もう夕方だよ」
「そっか、今日おかあさん夜勤かあ」
「『そっか』じゃないよ、もう。お風呂沸かしてるから、ほら起きて。ちゃちゃっとごはん食べ行こ。今日体育の授業がんばりすぎて、もうおなかぺこぺこだよぉ」

私にとっては姉になる姪の母は、姪のRがまだ赤ん坊のときに離婚してシングルマザーになった。女手ひとつでRをここまで立派に育てあげた彼女はいま夜勤のある仕事に就いており、自然その日の夜、彼女たちの家はRひとりになってしまう。それは姉も姪も不安ということで、だからときどきこうして姪のRは私の住むアパートへ泊まりにやってくるのである。

アパートから数分の定食屋で夕食を済ませ、お風呂も済ませ、姪の宿題を一緒にやって、定食屋からの帰りに寄ったコンビニで買ったアイスを食べてから歯を磨き、私たちは布団に入った。完璧な夜、完璧な放課後、完璧な休日がここにはあった。姪が天井を見つめ今日学校であったことを私に話す。その時間が私にはたまらなくしあわせなのである。この時間のためならいくらでも残業しちゃうぞ、そんな気持ちである。
「で、おじさんは今日なんかあった?」
今日あった出来事を話し終えたのか、姪が私に『次はおまえだぞ』とばかりに尋ねてきた。私は今朝見た不気味なトラックの話を姪にした。もちろんこわがる姪のかわいい姿見たさにである。だがしかし、彼女の反応は私の予測していたそれとは大きく異なっていた。
「あ~、おじさん見たんだ~」
「見たって、あのトラック見たことあるの?」
「それたぶん悪人引越しサービスのトラックだよ~」
「見たことあるの?」
「ううん。見たことないけど、でもなんか悪い人たちを見つけてどこか遠くに引越しさせちゃうんだって」

あまりに予想外の返答に私は面食らってしまっていた。「遠くって、どこなの?」
「知らなーい。でもちょっと前まで学校ですごい噂だったんだ。悪人引越しサービスのおかげでOくんが転校したんだって」
「Oくんって?」
「すごいいじわるな男の子。Rもね、一度お道具箱取られたもん。だからすっごいきらいだった。でもね、ちょっと前にどこかに引越ししていなくなっちゃた。Rね、Oくんには悪いけど、でも転校してくれてほんとはちょっとうれしかったんだ~」
「……そのOくんってさ、もしかして金髪でハート型の剃り込みが入ってる?」
「そうそう! おじさんなんで知ってるの?」
「ううん、なんでもないよ。ほら明日も学校だからもうおやすみ」
「ふ~ん、へんなのぉ……」言って姪は世界一かわいく微笑み、そのうちにすんと眠ってしまった。

「ってなことがあってな」
会社近くの喫茶店で私は姪との会話をMに話した。彼は私が参加していたカルチャースクールの文章能力向上講座の同級生で、卒業してからなお付き合いが続いている。私も彼も念願叶って文章に携わる仕事をしているというのがいまなお続く付き合いのきっと最も大きな理由であるが。普段から密に連絡を取り合うような仲ではないが、会うといつもまるで昨日会って遊んだような気軽さで話せてしまう。彼とのそんな間柄を私は好ましく思っている。
「なんか気味悪いだろ」
「たしかに。けれどけっこうおもしろそうだな。ちょっと調べてみるわ」
彼はいま月間のアダルトゴシップ誌の編集兼ライターのような仕事をしていて、怪談や都市伝説をでっちあげ記事にするページを担当しているらしい。いまどき珍しい類の雑誌の仕事は想像していた数倍はたいへんで、けれどもたのしいものだそうだ。
「今度焼き肉な」言って私は煙草に手を伸ばした。
「高くついたなあ」言ってMはコーヒー啜った。 

それから数日後、世界一かわいい姪がまた泊まりにやってきて、布団のなかに入ってしばらく話して、それから最後にこう言った。
「そういえば、Rね、こないだやっと見れたんだあ」
「なにを見たの?」
「悪人引越しサービス!!」
私は「おっ!」と思い、またMに貸しをつくれるなあなど内心でほくそ笑んだ。『今度は寿司だな、そうしよう』Mに対する意地の悪い算段をあたためていた私は、しかし姪の次の言葉によってそれが今後永劫叶わぬものとなっていたことを知る
「Rね、びっくりしちゃった。だってMおじちゃんの顔がトラックにとっても大きくプリントされてたんだもん」
「MってあのM?」
「うん。おじさんが一緒にお酒を飲みに行くあのMおじちゃん」
「……まあ、あいつ悪人みたいな顔してるもんなあ」
「Rね、一瞬で『ピンッ!』ってきちゃってね、公衆電話でね……」
『いや、まさかな』私は内心でつぶやき、へへへと笑い、それからすぐ姪と眠った。

以降、Mとは連絡が取れないままでいる。

カタログオタク

新しいものを買うことが苦手だ。物欲がないということではなく、少し前に話題だったミニマリストとかいう類の人種でもない。なにが苦手かというと、当然のことながらあらゆるものには一長一短というものがあり、つまり想像のとおり機能するようなものはほとんどないに等しく、私は『購入前に抱いていた期待』が使用を重ねるにつれ砂の城のように儚く脆く風化していくことがとてもとても苦手なのである。
ものを買うと幻滅することは往々にしてある。たとえば以前購入した液晶テレビは精細な映像美がセールスポイントで、私はその特徴に魅かれ購入するに至った。たしかに画面に映される映像はどれも美麗ですばらしいものであったが、しかしそのテレビはオーディオ面でまったく満足いくものでなく、私は早々に魅力を感じなくなってしまった。購入前によくする『それを買って私の生活がどうよりよくなるのか』という妄想の段階ではその欠点に気付くことができず、ゆえにこのような事態を想定できなかったのである。そんな幻滅に私が慣れることはない。きっとこれからもないだろう。それほどに私はその類の『がっかり』がなにものにも代え難く苦手なのである。

そんな手前勝手な性分が高じてか私は常に『ものを買う』ことに臆病であるのだが、しかし購入前に芽生えるワクワクというか未来に胸を膨らませ逸る気持ちをなんとかやり過ごし以て平然を装い街を浮足立って歩くときの『あの感じ』が、なんともかなしいかな、大好きなのである。そんな様子であるからか、私の数ある趣味のなかには『カタログ収集』というものがある。カタログというのはとてもよいものだ。具体的になにがよいのかというと『商品のよいところだけを書いている』ところがとてもよい。私はひたすら羅列された商品の利点の点と点を妄想のなかでつないで歪め増幅させてみたりして部屋でひとり微笑むのである。ある商品によりさらに快く改善される生活のことや、その商品によって演出される日常の一瞬や情景、その商品があったからこそ観察することのできたあなたのあの表情のことなど……。ひどく理想主義的で臆病な習性であることだなあと、ときどき辟易することもあるがしかしそれらは買わなければ実現することもない代わり、壊れてしまうこともない。その可能性は現実に挫かれることなく永遠に可能性として私の脳内に留まり続ける。これは私の生存戦略のひとつなのかもしれないが『実際には起きていない出来事』の精細なスケッチは脳に留まり年月を経るごとにさらに細かい描写が追加され続け、いつしかそれは現実に起こった出来事と遜色ないリアリティを獲得するに至る。するとそういった妄想はいつかただ私にとっては事実と虚実の境界を飛び越えて私の歴史にさも起きたかのようなものに昇華され、昇格するのである。

たのしいことやうれしいことがあったときは卒業式や送別会などで活躍するいろんな商品が並ぶカタログに手を伸ばす。それをペラペラとめくりながら今日あったたのしい思い出を肴にいつかやってくる別れのときを想像してインスタントな感傷を得たりしつつ煙草に火をつけたりする。くやしいことやかなしいことがあったときはモデルガンや護身用装具が並ぶカタログを乱暴に開いて、脳内で目星をつけた八つ当たり対象を八つ裂きにするための武器を探す。こんなふうな普遍的な気分に最適なカタログはもちろん常に常備しているが、私は私の感情をさらに細分化・ラベリングし、いろいろな気分に最適なカタログというのを取り揃えるに至っている。たとえばあたたかい日本茶をよりおいしく飲むためには墓石や仏具などのカタログを。日曜の夕方、明日から始まる仕事を思い立ち込める憂鬱な気分を晴らすときには空調器具のカタログを。いまはもう疎遠であるかつての友人たちに想いを馳せるときには万年筆やレターセットのカタログを。牛乳を買いに行かなければならないが面倒で腰が重いときにはさまざまな国の牛乳が並んだカタログを。日々の些事に耐えられなくなって押し潰されそうになったときにはあらゆるゲームソフトの並んだカタログを。
私にとってカタログとはカタログ的な役割だけではなくて、現実逃避的な役割を持ち得る。買わなければ理想は叶うこともないけれど、挫かれることもない。私はあらゆる商品を媒介していろんな情景に想いを馳せる。あるいは重ねる。私は私の心象にそうやって少しずつ『本当は見ても聞いても触れてもいない諸々』の精細な描写を重ね続け、ついには理想を崩すことなくその妄想を『本当のこと』のように扱う術を獲得したのである。

買うことはつながることである。つながることとはつまり、いつか必ずやってくる別れの約束手形のように機能する。別れとはどんなものであれ切ないものである。慣れないものであり、また慣れてはいけないようなもののような気もする。短絡的で稚拙な思想と言われればそうかもしれない。けれどもこれはまるっきり嘘ではない、むしろ短絡的で稚拙としか言いようのない、言い換えればつまりそれは「それを言っちゃおしまいよ」と言うほかない、だからとどのつまり、どう詭弁を論じようとこの世界を回す残酷な真理のひとつであるようにも思うのだ。

「それって、ひどくさみしいことのように聞こえるなあ」
以前、私が密かに想っていた人が私の生存戦略にそんな感想を与えた。私はよくばってしまって『あなたにもっと私のことを知ってほしいのだ』などと相当に危険な思想を有していて、あろうことかそれを実行してしまった。結果として彼女は私にとって『理想の彼女』ではいられなくなってしまい、途端に私の恋心は瓦解、幼児の手のなかで徐々に張りを失いしぼんでいく風船あるいは母親の乳房のように小さくなっていった。

私はいつか死んでしまう。少しずつ集めたカタログたちとも別れる日がいつか、けれども必ずやってくるだろう。必要最低限の生活物資しかない部屋の壁面にある本棚、そこに綺麗に整理整頓され陳列されたカタログの数々。私にとっては唯一実現しても裏切らなかった理想。その光景は異様だろうか。他人の視点や感性から私自身のことを見ることは未来永劫叶わないのだから、それは死んでもわからないことである。以前葬儀プランの並んだカタログを読んでいると、思い入れのある品々とともに焼いてもらう火葬プランを見つけ、私はそれに予約した。そのあとすぐにそのプランを取り扱う葬儀店に電話をかけて尋ねた。「これって、私の葬儀風景を新たにカタログをつくるときに使ってもらうこととかってできるのでしょうか?」先までにこやかに対応してくれていた若い女の声は一瞬詰まってから応えた。「ええ、もちろん」
その日から私は死んでからあと化けて出てカタログを確認する日が待ち遠しくて仕方がない。

そんな妄想をカタログのカタログをペラペラとめくりながら膨らませている。カタログのカタログのカタログもあると、そのカタログの末尾にはあった。世界はどうにもマトリョーシカで、たまねぎで、とても精彩には描き切れないな、などと。

ごはん問答

近所に行きつけの定食屋がある。長い年月を感じるのれんと店内に染み付いた油のにおい。白髪まじりの店主はいつも機嫌が悪そうな顔をして厨房に立っており、きっと近所の大学にかよう女学生であろう給仕はいつもニコニコ笑っている。オーガニックがどうのミシュランがやいのなんてこととは無縁の店であるのだが、いやだからか、私はそこはかとなく落ち着くのである。料理はどれも飛び抜けてうまいものではない。米が硬かったり千切りキャベツが苦いといったこともままある。けれども量がそこそこあり、店内は食べ盛りの学生たちでいつもそれなりにぎわっているそうだ。私がそこに足を運ぶのは週一度、それも多くが土曜日の昼過ぎだから、大抵は学生もあまりおらず空いているのだが……決まっていつもうるさい学生3人組がいるのである。

3人組はこの定食屋の近所にある大学の学生らしく、彼らがいま何年生であるのかなど詳細は不明だが、みな『美食同好会』なるなんとも怪しげなサークルに所属しているらしい。これは誰にとっても有益でない情報であり、私も別段みずから精を出し調べたわけでない。店内で話す彼ら3人の声が大きいから聞こえた、ひとえにただそれだけの話である。それから次いで迷惑な話であるが、私と彼らが店に赴く日というのはほとんど同じようで、店の扉を開けるとだいたいいつも彼らがいるのだった。聞き覚えのある声が店のなかから聞こえてくる度、私は深いため息をついている、そんな次第である。

そんな奇妙な偶然が高頻度で重なったこともあり、まったく不要なのだけれど、私は彼らの諸々について少しずつ知っている。禿頭のHはいつも焼サバ定食、肥満のDは丼と麺類を1品ずつ、金髪のRは唐揚げ定食をサラダ抜きで頼んでいる。禿頭のHはお冷には手をつけず持参の魔法瓶からなにやら怪しげな液体をグラスに注いで飲み、肥満のDはいつもだれかのおかずを隙あらば奪おうと鋭い目つきで麺類をズルルと啜っている。金髪のRは「魚なんかのなにがうまいんだよ、ハゲ。やっぱ肉だろ、肉」とHを罵っては唐揚げを毎度気持ちよい食べっぷりで頬張っている。彼らはそんなふうにして各々の目の前の盆の上にあるものをもぐもぐ食べ以て、さまざまな食べ物の話をするのである。『なにか食べながらよくまたさらに別のメシの話ができるな』と遠巻きに感心しながら私はいつもみそ汁を啜っているのだが、彼らから『ピータンのつくりかた』を聞けたのはよかった。まさかたまごを土に埋めるなんて……。先週参加した街コン、その二次会がおこなわれた中華料理屋のそこそこするコース料理の前菜で出てきたピータンを前にその話をするとややウケたのである。いやはや、これもまったくどうでもよい情報であるのだが。

そんな彼らであるが、先週と今週の2週にかけて少し気になる話をしていた。
「ついに手に入れたんだよな」言ってRは唐揚げを食べる手を止めた。
「というと?」禿頭のHがずれつつある眼鏡をくいとあげ、いつもの怪しげな液体を飲み以てRを見つめる。肥満のDはどうにも食べる手を止められない様子。『彼女でもできたんか?』など思いつつ私はデミグラスハンバーグを口に運んでいた。
「ほら、これ」言ってRは得意げな顔で名刺サイズのなにかを2人に向かって掲げている。どうやらなにかのチケットらしいそれを見てHはレンズの奥の小さな瞳をめいっぱいに見開いていた。「おいおいR、おまえそれどうやって……」
「おいデブ、食う手を止めねえか……俺な、明日『ごはん問答』に出てくんだよ」Rは半分にやけ顔でDにそう言った。
「すごいじゃん」言ってDはきつねうどんのだしを飲み干した。「都市伝説だと思ってたよ。ほんとにあるんだね」
『いや『ごはん問答』ってなんなんな……』みそ汁を啜りつつ私が困惑していると、なにやらHの様子がおかしい。
「たしかにおまえの食識にかなうやつなんてうちのサークルにはいないけど……」言って彼は謎の液体をぐびりと飲み干した。「負けたらなんでも『人生のたのしみ』をひとつ奪われるって言うぜ?」
「ハゲ、そこに未だ辿りつけもしねえおまえがびびってどうするよ?」Rが威勢よく言った。「いつもいつも魚なんてもんばっかり食ってるからだ。かしこくなったって、ここってときに芋引いてたらなんにもなんねぞ、ハゲカマ野郎がよ。男らしくもねえ」「ねえR、それに出てきみにメリットはあるの?」食後のポテトサラダを注文しつつ、DがRに尋ねた。その問いにRは失笑し、それからDをまっすぐまなざし応えた。
「まず、参加するだけでシャトーブリアンが食える」刹那、Dの様子が急変するのが私にもわかった。とはいえシャトーブリアンだけでそこまで変わるって学生はかわいいものである。
時価1000万のな……」それを聞いて私もお冷をぐびりとひとくち飲み、背筋を伸ばした。
「それってただのシャトーブリアンじゃないよね?」
「もちろん。肉の帝王、別名『グランシャトー』だ」そこまで言ってRは残っていた定食を完食しにかかった。
「参加するだけであの『ブリアンカイザー』を……」言ってDは唾液が止まらない様子。彼は女学生の給仕が運んできたポテトサラダをひと息に丸飲みしてしまった。女学生はDの暴食行為にも動揺せず、ニコニコと笑っていた。私はドン引きしてしまって箸でつかんだプチトマトを思わず皿の上に落としてしまった。「それで、勝利できたらどうなるの?」
「そうだな……」完食したRは煙草に火をつけ煙を吐いた。「俺は今度こそ正式に『ごはん問答師』の資格を得る」
「R、危険すぎる。やめておいたほうがいい……」先ほどからずっと黙っていたHがまだ半分以上残っている焼サバ定食に視線を落としつつ言った。
「俺の実力にもの申したいなら聞いてやるが?」RがHを睨みつつ言った。「おまえも知ってるだろ? 俺が『保有者(ホルダー)』だってこと……」
「俺はおまえが心配なんだよ。おまえが『似非ごはん問答師』なんて蔑称で食問界隈から揶揄されてたことも知ってる。そんなやつらを見返したい気持ちも痛いほどわかる。けどな、それに負けたときの代償がどうにも気になる。胸騒ぎがして止まんのだ……」

私は話の続きをもっと聞きたいあまり、気付けば残りわずかのハンバーグを驚くほどゆっくり、まるでそれを挽肉へと分解するが如くちびりちびり食べていた。煙草を吸い終えた金髪のRが席を立つ。「わりいな。俺は勝たなきゃなんねえんだよ。ごはん大王に」言って彼はそそくさと会計を済ませ店を出て行った。
「なんでだよ……」Rの背中を見送りまもなくして禿頭のHはしくしくと泣き始めた。「ごはん大王だぞ? そんなのみずから死にに行くみたいなもんじゃないか……」
「どうしたんだ? サバの骨、喉に刺さっちゃた?」泣き始めるHを見つめ、肥満のDがオロオロし始めた。「そんなときはね、ごはんを飲み込めばいいんだよ」
「飲み込まれちまうのは、Rなんだよ……」

私はニコニコと笑い続ける女学生の給仕に食後注いでもらったお冷を飲み干し、泣き崩れるHとDに後ろ髪引かれながらも店を後にした。

それから今週まで、私のあたまのなかは『ごはん問答』や『ごはん大王』といったことでいっぱいだった。ネットで検索しても有益なものはなにひとつヒットせず、肉の帝王『グランシャトー』の情報すらなにひとつ得られぬままだった。そんなふうだったからか、こんなにも土曜日を待ち侘びたことはなかった。私がいつもの時間に、いつもよりも若干の勇み足で以て定食屋に足を向けると、道中、私の目の前を金髪のRがひとり背をひどくまるめて歩いていた。彼はそのまま定食屋へと入っていき、私も彼に続いた。店内には禿頭のHも肥満のDもいないようで、私は先週のことを思い出して少しだけ彼らの友情を案じつつ、味噌カツ定食を注文した。Rは席に着いてからも注文する様子がない。普段ならば着席前に唐揚げ定食を注文する彼だが、今日は店内壁面に貼られた手書きのメニューをしげしげと眺めていた。それから数分後、彼はぽつりとつぶやいた。「焼サバ定食で……」
「焼サバ一丁!」女学生の給仕が威勢よく注文を伝えると、店主が眉間に皺を寄せ、珍しく言葉を発した。「……にいちゃん、唐揚げは?」
「いいんです、もう肉は。俺も少しは賢しくならないと……」そう言ってRは煙草に火をつけた。店主は首を傾げ、油に投入される寸前の姿のまま鶏肉を冷蔵庫へ戻した。

それから数分して定食ができあがり、可も不可もないあじわいの味噌カツを頬張りながら『先週の話の続きはもう聞けないのかなあ』と落胆していると、店の扉がガラガラと音を立て開いた。そこには肩で息をする禿頭のHと汗だくで息も絶え絶えの肥満のDが立っていた。
「……よぉ」Rが彼らに手をあげて言った。「まっ、とりあえずメシ食おうや」
HとDはRに招かれるまま席に着き、それからまもなく大声で泣き始めた。私はなにごとかわからずすっかり箸が止まってしまった。困惑した表情のまま店主のほうへ目をやると、店主もまた困惑した表情で私のほうを見ていた。そのままふたり同時に奇妙な3人組へ視線をうつす。女学生の給仕は変わらずニコニコと笑っていた。HがRに向かって言う。「おまえ、なんで焼サバなんか……」
「H、おまえを見習わなきゃなって思ってな。俺は愚かだったんだ。魚食べてかしこくなんないとな!」
「……R、ほんとのことを言えよ」
「……もう感じないんだよ」それは平坦な声音ではじまって、Rの言葉は徐々に震え始めた。「味がさぁ、ないんだ。なに食べても味がしねえんだよぉ!!」
「きみが奪われた『人生のたのしみ』って、もしかして……」ぴたりと泣き止んだDが言って、Hがそのあとに続いた。「『味覚』なんじゃ……」
「…………」

それはなによりも雄弁に語る沈黙だった。

これからあとは泣きながら話す彼らの言葉を私がそのときの記憶を頼りに断片的にまとめあげたものになる。
Rは先週言っていたとおり、例の『ごはん問答』とやらを『ごはん大王』に臨み、敗れたらしい。敗因は数あるそうだが、『鋭角から亜音速で飛んできたチャンジャ』と『あとから響いてくるアスパラガス』によるコンビネーションがあまりに強烈だったらしい。しかし彼はそれらを得意の『激昂するいちごジャム』と秘伝の『曖昧模糊なる概念フィットチーネ』による布陣で以て耐え抜いていたそうだ。しかしその間隙を縫うようにして潜り抜けてきた『星々を喰らう子持ちししゃも』によって彼は貫かれ、結果としてそれが彼が敗北する決め手となったそうだ。
聞き馴染みのない言葉の組み合わせからなる戦略がいったい彼にどれだけのダメージを与えたのか、私には想像できない。できないが、どうやら彼ら3人組から言わせれば『外道』と言って遜色ないごはん大王の攻撃が彼から味覚を奪ったこと。それが紛れもない事実だということ。それだけは私にもわかった。なぜなら、彼らが流す涙がまったく偽物のそれには見えなかったから。あれが演技なら彼らは全員よい役者になれるだろう。
そのあと彼らはわんわんと泣き続け、店主は『彼らは薬物でもしているのではないか?』と疑い始め、通報。まもなくやってきた赤橙に照らされた美食同好会の3人組はみなパトカーに押し込まれ消えていった。
私はそれら事の顛末をすべて見終え、すっかり冷え切った味噌カツを食べ切り、会計をして店を出た。謎は深まるばかりだったが、若者の涙と現実を超えるらしい超常の気配に少し寒気を感じながら帰り道を歩いた。

アブノーマル運動

「なんや変なことがしたいわあ」など思いながら、冬。
起き抜けの朝は凍えるぐらい清潔で、せやけど夢とはものごっつ二律背反、ゆえに残酷、ゆえに清潔。なんや遣る瀬無いわぁ、とか。
寝惚け眼でかつパジャマ、スリッパの片方は行方知れずのまま半分素足で立ったキッチンで淹れたつくりもんでもなんでもないほんまにほんまもんの大人飲料からふんわり立ち上るまるでニセもんみたいに幻想的な湯気をぼんやり見てたねん。右手で持った気に入りのスヌーピーのマグカップのなか、愉快にゆれとるなんやえらい宇宙みたいにはてしのーてくろ-てにがーいハタメタにアチアチな液体なんぞをズゾゾと啜りつつも味蕾は非情で非常に没感動的。利き手でない幻の左手は自動的に煙草を求めており、けれども当然そんなもんはどこにも見当たらへん。そうしていつも「ああ、なんかめちゃさびしい」ということを『ピコン』って思い出す。
コーヒーを飲み干してのち、空っぽになったマグカップを破壊、その破片を食器洗剤でひとつずつ丁寧に洗い上げてからゴミ箱へ。ぼくは昨晩に林檎を切った包丁を左手に持ってパジャマなカッコのまま素足をスニーカーに突っ込んでお散歩と洒落込みましてん。

商店街は外国の祭典仕様にお化粧されて、その惨憺たる様やほんまえげつないレベルの豚に真珠。奇異の目でぼくを避けて歩くジジイとババア。なんで? なんでなんやろか? そんなこんなしてたら遠からず近からずな形而下からなんともまあけたたましい音。鈴の音やないのやで。真っ赤っかやったけどトナカイのお鼻でもないのんな、これが。白黒の車から出てきたんはあわてんぼうのサンタクロースやなくてぽっと出の兄ちゃんふたり、ほんで彼らは言いました。「おっさんがそんなもん持って歩いたらあかんやないの」「逮捕やで」遠巻きに見てたババアも言いました。「死刑にせえ」するとジジイも同調。「集いし願いが新たに輝く星となる。光差す道となれ! シンクロ召喚! 飛翔せよ、スターダスト・ドラゴン!」
「せやな」「それもそうや」「ただしいわ」「ほんだらいきましょか」そして構えるリボルバー。それはちゃんと6回転、空気は破裂しもって劈くは悲鳴。ぼくは思う。この世じゃほんまいのちいくつあっても足りまへんわ。
「自分あと何基あんの?」言うてポリスメン、わんわんわんと鳴くこともせんとまあ、それってほんま見事な職務放棄やと思いますけど。セントバーナードもそうおっしゃってます。ね、オンジィ? せやけどそれはそれやんか、ぼくは応えた。「わからへんけど、朝からごっついさびしいねんやんかあ。これはにゃんで?」
そんなぼくを脇目にもうひとりのポリ公がなんや無線機に囁いてた。「迷子、保護しました」

ぼくは迷子なんか。そっか、そうなんや、ほんだらぜんぶ合点いくわな。だって迷子なんやもん。そらそうやんか。ほんだらなんもわからんかっても当然やんか。正解やんか。だって迷子なんやから。

そんなこんなで警官ふたり刺し殺して、それでぼくの散歩は続きます。ときどきぼくを避ける人を捕まえて、ぼくは聴きました。拝聴しました。「自分は何基なん?」そしたら近所の勇気あるクソガキどもがセブンアップの缶をぼくに投げつけてきた。スコンとかポカンとか、そんな音で命中するもんやからぼくはだんだんわらけてきて、そのまま道のまんなかでうずくまってしもてんな。ほんだら少年Aがぼくに言う。「おまえなんかふつうのくせに、おかしなふりして、へんなんな。あんたいったいなんなんな? どうなりたいんな?」知らんやんそんなん、ぼくが聞きたいわそんなこと。そんなぼくに少年Aはしつこい。「ふつうのくせにへんなふりすんな。みんなへんになってんのにな、がんばってんねん。みんながんばってんのにな、せやのにな、おまみたいなな、ぜんぜんへんにもなんにもなれてない、なってないおまえがへんなことすんな。ちゃんとしろ。ちゃんとしろや。お願いやから、ちゃんとしてくれや」終いに少年Aは泣いてしもた。「おとなのくせに……おとなのくせに……」
つられてぼくももらい泣き。それで無事ことなきを得た、なんてそんなわけはなくて、まあそのあとしっかり7回、ぼくは少年を刺し殺したとさ、おしまい、で終われたらどんだけええんやろね、人生。緞帳とか、そんなちゃんと降りへんもんなんちゃうの? ぼくは死んだことないからまだなんにもわからへんねんけど。みんな人生のアマチュアなんやろ? おまえもそうは思わへん?

 『すみません、よくわかりません』
「なんや変なことがしたいわあ」
『すみません、よくわかりません』
「ああ、なんかめちゃさびしい」
『それはおもしろい質問ですね』
「ぼくはあたまがおかしいんやろか」
『私には意味がわかりません。よろしければ「ぼくはあたまがおかしいんやろか」をインターネットでお調べしますよ』
「なんや遣る瀬無いわぁ」

 ほんでぼくは会話のできへん不出来なAIの世界に包丁突き刺して壊したってわけ。なんや遣る瀬無いわぁ、とか思いながら。もうどこにもない煙草を利き手でない幻の左手で探しながら。ほんでぼくはいつも突然やってくるもう今後一生やってこおへんかもしへん『ピコン』の瞬間を待ち続けてるってわけ。なんでってあんた、そらな、それだけ、ほんまにその『ピコン』だけがな、ぼくを迷子から脱迷子へと誘うこの世で唯一の信用に足るものなのだからだよ、など。死とはちゃうねんで、断じて死とは。起き抜けの寝惚け眼にはなーんにも見えてへんままやけど、凍える冬にはそんなことを思う。

くもりのちまくら

金曜日の夜、労働を定時きっちりに終えて退社した。明日の朝はやくに予定があるわけでも別段なかったのだけれど、特に前向きな気分にもなれず、どこにも寄り道せずてくてく歩く。すっかり寒くなった夜のなか、一昨年に購入した黒色のダッフルコートを着込みharuka nakamuraの『arne』を聴きつつ電車に乗った。

人もまばらな車内で携帯電話を取り出し確認すると、古い友人からメールが一通届いていた。去年の春に共通の友人の結婚式で二言三言交わしたことを覚えている。彼の名はTという。液晶画面をタップしてメールを開くと紋切り型の挨拶が冒頭にあって、なんだか少しすわりの悪い心地になる。私たちはいつからかつては間違いなく友人であった間柄の人間にも『礼儀』という自己防衛を見せつけるようになったのか。とかくそんなたのしくない不健康な憂鬱を思考の端でくゆらせながら、私は続く本文の上を視線でなぞった。
『急で悪いんだけど、今週末、空いてるか?ひさしぶりに会いたくってさ』
ふむと思って私は悩む。而立を優に超えて不惑を目前にした我々がわざわざかつての友人に連絡する理由。マルチや宗教勧誘などでなければよいなあと思いつつ返信。
『いいね。ちょうど空いてるよ。メシでもいこう』ものの数分で再度T。『じゃあ明日の土曜、○○駅前で』

当日の土曜日はどんよりとくもっていた。指定された駅前に向かうと、Tは先に到着していた。
「ひさしぶり。元気そうだね」そういうTの出で立ちは異様だった。全身真っ白のスーツに身を包んで、ネクタイも白。両手の爪も白色に染まっていて、カラーコンタクトを装着しているのか、両の眼孔に安置された眼球も白色だった。白くないのは彼の少し日に焼けた肌と煙草の煙で汚れた歯、それから目の下に黒々と染み付いたような隈ぐらいだった。「じゃあ行こうか」
「行こうってどこに……」驚いている私への挨拶もそこそこにTは私に紙切れを差し出した。まるで自動機械になったような不自由さで以て、つまり自分の自由意志ではまったくなく、ほとんど反射的に私はそれを受け取った。紙切れはバスのチケットのようで、上段には『冬の枕狩りツアー』という文字が妙にポップなフォントで以て紙面中央に配置されていた。
「最近よく眠れてる?」チケットの意味深なタイトルに眉間を強張らせている私に、深々と刻まれた隈には不釣り合いなほど開かれた両の目で私を見据えTが聞く。『それはこっちの台詞だよ』などという思いが胸のうちで落ち着かないままでいるのを感じながらも無視、私は応えた。「まあ、それなりに」
「嘘でしょう?」やわらかい声音でTが言う。「だって目の下の隈がすごいもの」そして彼は笑った。それは『ラスト・フォー・ライフ』のアルバムジャケットで笑うイギーポップのような明朗かつ不気味な笑顔だった。

そうこうしていると駅のロータリーに小さくも大きくもない中型の観光バスが停車して、Tがそれを認めて歩き出す。私も彼に続いた。バスの出入り口に立つ運転手にチケットを見せ車内へ。なかにはすでにちらほらと人が乗っていた。世代はさまざまで、頭頂部が生まれたままの黒色に染まりつつある金髪の若い女がいれば、黒色のスーツを着た白髪の老紳士もいた。共通しているのは、だれもが目の下に深い隈があるということ。『なるほどこれは不眠症セミナーだかなんだか、きっとそのような類のものだろうな』私はそうひとりごち、Tの隣の席に腰掛けた。
「ひさしぶりに会ってこういうのもなんなんだけどさ……」言って私はTの外見に言及する。「ちょっと悪趣味じゃない?」
「これ?」白いスーツの端をちんまりとつまみあげTは言った。「白いと落ち着くんだ。よく眠れる。全身が枕みたいになった気分でさ。わかるだろ?」
Tはいったい私になにが『わかる』と期待して問うたのだろう。私にはなにもまるでわからなかった。彼が奇特な格好をする理由も、求められた共感がなにを指すのか
「で、この『枕狩り』っていうのはなんなんだ?」私は話題を変えTに問うた。
「国内の枕生産量1位がどこか知ってる?」私の問いにTが問いを重ね、私の応答を待たず続けた。「○○県○○市のとある村なんだ。山と山のあいだにあるような村で、そこで採れる枕はほんとに別格なんだよ。天にも昇るような心地でさ……まあ知らないのも無理ないけどね。国ぐるみで秘匿されていることだから」
「それってどういう……」Tが言う意味不明の意味の意味解像度をもう少しだけ明瞭にしようと追及を試みたのと同時、車内にいつのまにかいた添乗員の女が耳にキンキン刺さるようなテンションで話し始め、私は黙った。 

「この度は『冬の枕狩りツアー』にご参加いただき、誠にありがとうございます。わたくし、今回みなさまの旅のおともをさせていただきます、合法的睡眠アドバイザーの目乃田実と申します」そこで女はひと息つく。車内にはまばらな拍手が起こった。それを聞いた女が満更でもない様子で顔の筋肉を軟化させ仕事を再開する。「それではみなさま、目的地に到着するまでのあいだ、ごゆるりとお眠りくださいませ」

気付けば私は眠ってしまっていたようで、はっと目が覚め車窓のほうへ視線をやると、どうやらバスはすでに目的地へ到着、停車していた。
「やっと起きたね。よく眠れた?」そう言って笑うTの目の下の隈はこころなしか先ほどよりもよくなっているように思えた。「じゃあ行こうか」
言われて私たちはいそいそとバスを降りた。少し眠ったからだろうか、身体は驚くほど軽く、どうやら私は非常に質のよい睡眠をしていたらしい。
「もうすぐ降り出しそうだね」言ってTが空を見上げた。
「傘、持ってきたらよかったなあ」言って私は周囲を見渡した。同じバスに乗ってきた目の下の隈の深い人々のほとんどが空を見上げていた。皆そんなに空模様が気になるのだろうか。そんなことより、よくわからないけれどもしかしさっそく『枕狩り』とやらに興じるべきではないのだろうか。雨を心配しているのならなおのこと。だいたいさっきのなんたらアドバイザーはどこだ。バスから降ろされて、それからぼくらはどこへ向かえばいいのか、なにひとつ聞かされていない。
「なあT、さっき聞いたけどさあ、ほんとだいたい枕狩りって……」Tは口元に人差し指をぴたりとつけ、私の言葉を途中で遮る。それから口元の指を空へ向け、小さな声で言った。「ほら、そろそろくるよ」
「なにが……」言って私は彼の指差すほうへ視線を向け絶句する。方々からは歓喜を多分に含む嬌声があがっている。「枕が降ってきてる……」

灰色の雨雲の先からゆっくり舞い降りてくるように、大きく白い枕がふわりふわりと落ちてくる。数は決して多くない。私の視力で認められたそれはぜんぶで3つだった。
「おいT、あれっていったいどうなってんの……」言って隣を見やったが、純白の彼はどこにもいなかった。すでに舞い落ちてくる枕の落下地点へTは疾走していた。それぞれの枕の落下地点には人だかりができていて、なにやら互いに怒鳴り合っている。少し古いコメディドラマで見たことがある年末年始の婦人服のバーゲンセールのような光景。そこで展開されているのは闘争であった。原始的闘争。殴打と流血と収奪の光景。
金髪の若い女がスーツの老紳士の上でマウントを取り、グラウンドパンチを繰り出している。老紳士の顔は真っ赤に腫れ上がり、意識はすでにないように見える。白髪のところどころは血で赤く染まっていた。老紳士の息の根を止めたことを確認し、肩で息をして微笑む金髪の若い女の背後にTが立っていて、女はまだ彼に気付いていない。Tはスーツから小さなナイフを取り出して、それを女の後頭部に突き刺した。女は停止、沈黙、若干の痙攣を経て、それから彼女自身がまたがっていた老紳士の上に重なるようにしてくずおれた。

「あなたは行かれないのですか、枕狩り?」白昼夢のような光景に面食らって動けない私の隣にいつのまにかバス添乗員の女が立っていた。「手に入れないんですか、安眠?」
「そんなことより、止めないんですか、あれ」緊張で乾いた喉がくっついてうまく声が出ない。掠れた声で私は続けた。「責任問題とか、たぶんなると思うんですけど……」
「そうですかねえ?」言って女はなにもかもが愉快であるように笑った。「大丈夫ですよ。みんなどうせ『眠る』んですから」
「はあ?」疑問符の可視化にもうまもなく成功するだろうクエスチョンマークまみれの私の隣で女は笑い続けていた。私は非難の眼差しとともに言う。「あんた、大丈夫か?」
「ご心配どうも」言って女は指差す。「ほら、あなたのお友達もちゃんと『眠る』ことができそうですよ」
女の差す指の先を見やると、そこにはついさっきまで白色だった全身をまだらな血色に染めて立つTの姿があった。彼は金髪の若い女とスーツ姿の老紳士の屍の上に立ち、舞い降りてくる枕に向かって手を伸ばしている。残り数メートル、数センチ、もうまもなく。Tの指の先まで枕はやってきて、それから突然の銃声、破裂する不眠を抱えたTの頭部、そして静寂。その後、空から舞い降りた枕はひとつ増えた屍の山の上に音も立てずに無事着地。それからそれは自身を求めた元不眠症患者たちの血をじっとりと吸収し続けた。
銃声の先を見やれば、そこには猟銃を構えたバスの運転手がいた。彼はほかの枕の落下地点にいる最後の生き残りたち2名の頭部も手際よく破壊、それからわずかの逡巡もなく自らの頭部も破壊した。

「ほら、みなさま無事に眠ることができました」絶句する私に女が微笑んだ。「あとはあなただけですね」

 そこで夢は醒めた。全身には汗。
「なんだ、夢か」私は先ほどの光景すべてが夢であることを言語化し表明、そうすることでまだなお怯える脳を落ち着かせた。「我ながらまったく悪趣味な夢……」
ひとつため息をついて、携帯電話で時間を確認する。〇月○○日土曜日、午前3時○○分。日時を認め、ようやっと気持ちも現実へ回帰、落ち着きがおぼろげながらも輪郭を獲得し始めていた。
「さあ、もうひと眠りしよう」うすら寒い部屋でひとり呟いて携帯電話の灯りを消そうとしたところでメールが一通届いた。差出人は古い友人のT。これは夢だろう。そう思い込み、中身を見ずメールを消去。それから私はウルツァイト窒化ホウ素よりかたく目をつむった。